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私のこれまでの二十二年間について 21

大学4年の終わりに、私は大学を休学することを決めた。理由は病気のことや、家族関係、就活のことなど様々だ。大学5年生という聞き慣れない言葉は、私がいつの間にかレールから外れ、落伍者になったような、そんな嘲笑めいた響きを持って私にのしかかる。

 

何度となく見た桜の景色だが、今の私にとっては憂鬱で仕方のないものだ。就職活動が決まったものとそうでないものが明確に区別され、後輩からの期待という名のやわらかな差別を一身に浴びることになる時期。

 

私は就職活動にまるで関心が湧かなかった、いや正確には関心はあったのだが、頭でやろうとしていることを体がついてきてくれない状態だった。脳と身体と心ぜんぶがちぐはぐに動いているような、奇怪な操り人形のように、私は何とか、ぎりぎりでその体裁を保っていた。

 

見よう見まねでエントリーシートを出し、苦し紛れに纏めたポートフォリオを送って、一次面接まで漕ぎ着けたが、正直ゲームを作りたいなど微塵も思っておらず、面接官の質問に対して嘘をつくこともできなかった。

 

映像が作りたいですと正直に話すと、面接官は何かを理解したように頷き、合否の結果を知るまでもなく私は落ちた。

 

かといって映像会社を受ける気にもならなかった。私はとにかく、この就活というパフォーマンスに沿って踊ることが、窮屈で仕方なかった。全部が陳腐に見えた。志望動機や強み・弱み、学生時代に励んだこと、性別。何一つとして腑に落ちない形式で、就活のことを考えるだけで息が苦しくなった。就活が上手くできない、ただそれだけのことで私は私に価値がないのだと思い知らされるようだった。

 

周りの同級生は、皆意思がなく、機械のように動いているのだと思った。皮を剥いだら電子基盤が露呈して、ブザーを鳴らして私に警告するのだ。

 

「就活をしないと人生終わるよ。」

 

「新卒で大企業に受からないと恥ずかしいよ。」

 

「なんのために大学きたの。」

 

「全部就職するためでしょ。」

 

そうした心の声が言うことはよく理解できる。私は確かに就職するためにこの大学に来たし、大企業に勤める先輩へOB訪問する時も、心なしか鼻高々だった。

 

しかし、現実はそう全てがうまく行くわけではない。むしろ全てが破局しているかのように、私は制作も生活も就職も恋愛も本当に全て、何もかも上手くいかないガラクタだった。なんのために生きてるんだろう、この大学を卒業したら私はどうなってしまうのだろう。不安だが、将来のために行動を起こすなんてことは今の私には難しく、毎日ご飯を食べて寝る、ただそれだけのことすらもできる日とできない日があるような、そんな学生生活だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学生最後の年の制作課題は、生徒の自主性に任された自由なものが多い。企画、立案、会議、制作、発表、それら全てを生徒が自ら行い、教授はそれをサポートするような役割になる。一般大生がいう、ゼミのようなものなのだろうか。

 

私はまだ4年生だった当初から、卒制で作るものを決めていた。決めていたというよりはこれしかないというテーマをすでに見つけていたように思う。教授とのミーティングでも、早い段階から作品のイメージを伝えていた。タイトルは、『papa』。

 

その言葉を想像するだけで胸が膨らんだ。私がずっと欲しかった存在、かけがけのない父性を、私だけの方法で表現したい。どうすればいいか分からずずっと胸の奥に仕舞い込んでいたが、5年生も後期に差し掛かった頃、本格的に皆が就職活動を終え、卒業制作に取り掛かる段階で私も『papa』の制作に取り掛かった。

 

アニメーションになるんだろうなとは思っていた。他に自分の魅力を最大限に主張できるメディアは無かったし、自分でもそれが合っていると思えた。一切の素材は使わず全てPC内で完結させる。なるべくシンプルにしたかったのと、昔から馴染みのある手法で描いた方がしっくりくると考えたからだ。

 

最初はうまくいかなかった、夏休みの段階では家では思ったように集中することができず、絵コンテも進まなかったし、教授とのミーティングでも進捗が芳しくないことを察せられ、一対一で話す機会を設けてもらうなどしていた。その時チームになった教授は、教授陣の中で1番若手で、私も会話の中でたまに敬語を忘れるくらい生徒に対して壁を作らない人だった。私の学部は"感性"のような曖昧さを許さない風潮だったが、その中でも説明しにくいアンニュイな話を、比較的理解・共感してくれる教授だったと思う。だから、甘えていたのかもしれない。

 

その時の私はいつにも増して情緒が安定しておらず、一度教授との話し合いになると熱を持ってしまい、相手を傷つける発言や良心を疑うような態度を見せてしまうこともあった。教授は、そんな私に呆れながらも見捨てることはせず付きっきりで話を聞いてくれた。

 

「君は僕を壁だと思って、壁打ちするように話しなさい。」

 

そんなふうに言ってもらえたのは初めてだった。今まで私は教授と話す時、つい緊張して気を使う癖があった。思ったことを素直に言えず、強い口調で言われるとそうなのかもしれないと意見を教授に合わせることも何度かあった。そのせいで、私が作ったにも関わらずいつの間にか教授の作品になっていたと思う課題もある。

 

その教授は強い口調を使わなかったし、なにより年齢差を感じさせない人だったから私も本心を曝け出すことができた。相手をただの壁だと思って、跳ね返ってくる言葉を打ち返す。1人でラリーをするように話すと私の中からはすらすらと言葉が出てきて、あっという間にストーリーがまとまった。ずっと心の中で温められていた思いが放出される時を待っていたかのように、私の中では作品はほとんど完成していた。

 

何度かの話し合いの後に、私はこの作品をミュージックビデオにすることにした。と言っても、歌詞があるものではなくBGMであり、それもネットから著作権フリーの音楽を持ってきただけだった。ただ、その音楽が聴けば聴くほど今回の作品のテーマとピタリと一致した。

 

女性が、ひらがなの『ぱ』という音だけでメロディに合わせて歌っている。音自体はシンプルだが、聴いているとこちらも踊りたくなってくるような独特なリズムがあり、なにより無個性な感じが作品のテーマを邪魔しないと思った。ずっと音楽で迷っていただけに、こんなに噛み合う音楽が見つかるなんて、一度進み出した歯車が直ぐには止まらないように、私は作品を作っていくたびに次から次へとアイデアが溢れ、風景が浮かび、それらを表現するのに手が何本あっても足りない状態だった。もちろん限られた時間の中で仕上げなければならないため焦りはするのだが、不思議と苦しくはなかった。むしろ、夢中になっていた。こんなに作ることが楽しいと思えたのは受験以来だ。

 

「頭の中でイメージできているなら、手を動かす段階で既に作品は完成している。」

 

Twitterで誰かが呟いていた言葉だ。思えばこれは正しいと思う。手を動かしても焦るばかりの時は、やはり頭の中で完成が見えていないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人は何かに夢中になっている時ほど、予期せぬ幸運が訪れるもの。

 

11月。卒業制作のプレゼンを1ヵ月後に控えた頃、私は学祭に参加していた。そこでは生徒が主体となり、学内に作品を展示したり、ライブを開いたり、出店を設けたりするなどして学校全体を盛り上げる。当然、飲酒も可だ。

 

私の学校は飲み会が激しい。毎年の学祭では24時間酒が売られ、狭い敷地内に生徒や学内の方、OBなどが集まりコールをかけ、騒ぐ。そう言った集まりが苦手な人たちは別で集まりを作り、そこでしっぽりと飲む。深夜になり、学校が閑散としてきたら輩どもは街に繰り出すか、誰かの家を借りて盛大に二次会を開く。

 

苦手な人からしたら地獄かもしれないが、私はこの飲みの雰囲気が好きだった。ゾンビのようにその辺で寝る人達、へべろけになり男女構わずイチャつく学生、上下関係などもはやなく、先輩や教授に酒をたかる後輩たち。最低限の倫理や道徳をみんな持っているので暴力事件などには決して発展しない、私や私のような社会に居場所を作りにくい者にとって、このようなカオスに身を包めることは幸福だった。たとえそれが大学期間というわずかな時期だけだったとしても、その期間に自我を解放できることは生涯忘れられない経験となるだろう。私はその日も、仲の良い後輩と恋の話をして盛り上がった。

 

私は既に作品で性的志向をカミングアウトしているため、後輩たちも私の恋の話を真剣になって聞いてくれた。

 

「がみーさんはきっといい人できますよ。」

 

そんな後輩からの声を聞くたびに、情けなくなった。私には大学時代ずっと片思いしている人がいて、その人に振られてもなお失恋を引きずって、うじうじと悩んでいる。未練たらたらで次の恋愛にも進めない。そんな話を誰にでもできるわけもなく、私はごく限られた人にだけその話を伝え、それ以外の人たちにはアプリで会った男の話やゲイバーで絡んでくるおじさんの話などをしてその場を凌いでいた。

 

プラスチックのコップに注がれた、カシスリキュールとオレンジジュース。朱色に染まった手元の液体には、周りの風景が薄暗く照らされており、テント内の照明は橙色をして火照った顔を滲ませる。外気はかなり冷たく、もういつ雪が降ってもおかしくないような季節だ。まだ時刻は0時も過ぎていない。今晩はどこまで飲むだろう、どこまでも着いて行きたい、こんな楽しい夜が続くのなら。ふと、私を見た後輩が言った。

 

「別のテントに行きましょう。確かフラダンス部のテントが今盛り上がってるって、ほら中華料理を出してるとこですよ。」

 

私は後輩に誘われるがまま寒空の下コートを羽織って駆け出した。自分でも何を喋っているかよくわからない、脳を使わず会話をしている。今の私たちはきっと地面から少し浮いていて、妖精のように見えているだろうな。身体も怪しく光って、指先を振ると光の粉がその軌跡をなぞるようにして消えていくのだ。私と後輩は踊りながら、笑いながら、どんどん濃くなっていく夜に身を埋めていく。

 

テントに着くと、私と後輩はお酒を頼み、待つ間にしばらく話をした。その後輩には唯一、彼が好きだったことを伝えていたし、本人もそれを興味津々で聞いてくれ、何より励みになることを私によく話してくれた。後輩で一番仲が良いと言えるのは彼女かもしれない。

 

「がみーさんはほんと、絶対いい人できますよ。」

 

「そうかなあ、振られてるからな、俺。」

 

「それは向こうも訳わかんない人種なだけで、交通事故みたいなもんていうか。絶対大丈夫ですって。」

 

「ありがとう、君はいつ彼氏できるのかな?」

 

「あーんあたしはほんとゴミクズカスみたいな人間なんで……ゴミクズカスでもめちゃくちゃ可愛くないですか?なんで、男見る目なさすぎじゃないですか?えーん理想の男どこー。」

 

「おれも理想の男に会いたーい。」

 

2人で会話を楽しんでいると、カウンターに立っている女性が私たちに話しかけてきた。

 

「すいません……会話聞こえてきちゃったんですけど、もしかしてあなたゲイなんですか?」

 

その女性は金髪で、しばらく切っていなかったのか頭頂部が黒くなってプリンのような色合いをしていた。瞳が大きく、ぱっちりとした二重にかわいらしいエプロンをつけてカウンターに立っている。私はそうだよ。と彼女に伝えると、その女性は口元に両手を当てて驚いた顔を見せた。

 

「本当?うちの専攻にも1人いますよ。先輩なんですけど……。私連絡先知ってるので教えましょうか?」

 

「まじ?専攻はどこ?」

 

「油画です。」

 

油画はKとの話の中でも話題に上がっていたが、確定ではなかったため、私にはその人がどういう人なのかまるで見当もつかなかった。いや、正確には1人だけ見覚えのある男子生徒はいた。その人は英語の授業で油画の人たちの席に座っており、寡黙で、見た目はフクロウのような知的な印象を持った人だった。私も一度だけ話したことがある。

 

でもまさかな、その人が仮にそうだったとして、私のことがタイプなわけがない。こんなガリガリで気性が荒い男を好きになってくれる人の方が珍しい。ただ、私はその人に純粋に興味が湧いて、連絡先を教えてもらうことにした。

 

「私から伝えておくので、大丈夫そうだったら向こうから連絡来ると思います。」

 

私は彼女に礼を言った。後輩とも、どんな人ですかね?と密かに盛り上がり、その後は酒を煽りながら知り合いが集まるテントで夜を明かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その人から連絡が来たのは翌日の昼間だったと思う。

 

「初めまして、後輩から話は聞いてます。良かったら会ってみませんか。」

 

私は顔もわからないその相手と会うことにした。同じ大学だし、万が一のことがあっても対応できる。私も相手がどんな人なのか気になるし、相手も私のことが気になっている。文面から伝わってくるが、恐らくカミングアウトすることに抵抗がない人だろう。初めての敬語のやりとりは多少ぎこちなかったが、メッセージを長く続けるよりもまずは会ってみたいという気持ちが強かった。

 

何でもない日の夕方に会うことにした。待ち合わせ場所は大学近くのバス停。ピンクの縁取りがされた看板にはその街を一周するように、駅から繁華街、住宅街を通り大学まで戻ってくる道のりが記されている。陽の当たらない建物の影でその人を待つ。

 

知らない人と待ち合わせする時、いつも歩いてくる人影が気になってしまう。姿がわからないと余計に、あそこで待ってる人だろうか、それとも遠くから向かってくるあの人だろうか……と、通行人を横目で追いかけては素通りされ、違ったか。と息を吐く。いちいち期待するわけでもないが、あらゆる通行人の中から偶然、他人から知り合いになるその過程が興味深いのかもしれない。人の縁は一期一会とは言うが、全く知らない他人から、恋人になったり家族になったりすることはやはり奇跡的で、それがランダムに形成された分子の結びつきだったとしても、そこに運命と呼ばれる響きを感じずにはいられない。人に自由意志が無かったとしても、そう錯覚していられるうちは幸せでいられると思うのだ。

 

到着して5分も掛からなかったと思う。大学の方から歩いてくる人影が見えた。その見た目は大きく、着ているコートが暗めの色だからか上半身のボリュームに比べて下半身が慎ましい、アンバランスなシルエットを揺らしながら歩いてきて、私を見つけると小走りで駆け寄ってきた。顔が良く見える距離になると、私は英語の授業で顔を合わせた、あのフクロウみたいな男子がそこにいることに気付いた。

 

「や、がみくんだよね。会うのは初めましてかな。」

 

「初めてじゃないよ。英語の授業、一緒だったから。」

 

「そうだっけ。ああ、そう言えばあの時握手したね。」

 

フクロウくんは前髪で眉毛を隠しており、パーマを当てているのだと思うが、身長も大きく肉付きもそれなりにあったため、むちむちとした印象を受ける人だった。ただ、表情はどこか物憂げで、目線を合わせずに話す感じがたどたどしくて親近感が湧いた。両手には黒い手袋をして、そんなに厚着で暑くないんだろうかと思うほど着込んでいる。

 

「今日はよろしく。」

 

「こちらこそ、よろしくね。今日はどこに行くの?」

 

「イタリアンを食べようかと思ってる、お腹空いてる?」

 

メッセージの時は敬語だったのに、会うとお互い自然な感じで砕けて話せていた。私は空いてる。と返すと、フクロウくんはじゃあ、行こう。と言って私たちは陽が落ちかかった大学校舎を背に、周回バスに乗り込んだ。

 

バスに乗っている間何を話したかは良く覚えていない。互いの卒業制作のことや、紹介してくれた女の子の話をした気がする。バスは狭い坂道をゆらゆらと進み、私たちは小さな座席のシートにこじんまりと座り、時々バスが大きく揺れると身体が触れてしまって、そのことを何か言ったりはしないが、心なしか緊張してしまっていた。

 

バスを降りた先は小さな川沿いの、飲食店が立ち並ぶ静かな通りだった。京都の祇園の街のような、背の低い建物が細い路地に軒を構え、電飾の灯りは道を淡く照らし、シックな雰囲気を醸している。その通りを少し歩いたところにお店はあった。

 

既に予約してあるようで、私はフクロウくんに着いて行くように店内に入った。4人掛けの席を2人で使わせてくれて、私はソファ側、フクロウくんは椅子側に腰掛けた。お互いにコートを脱ぎ、隣の席に置く。チェイサーが運ばれて、私とフクロウくんは一口飲んで、それから腰を落ち着かせたように話し出した。

 

「急だったね。」

 

「本当に。同じ大学で紹介で会うなんて、かなり珍しいよね。」

 

「うん、おれもそう思う。がみくんとは学年一緒だよね、同い年かな。」

 

「自分は現役だけど留年してるから今5年目なんだ。だから一浪と同じかな。君は現役?」

 

うん、そうだよとフクロウくんは返すと、少し俯きながら、はは。と笑った。口角が上がると優しげな顔が一層朗らかになり、なんていうか、体の大きさも相まって熊のように見えなくもない。蜂蜜が好きな、茶色の心優しい熊。

 

フクロウくんは掛けている丸眼鏡を外すと、ポケットから眼鏡拭きを取り出して、それで拭いた。

 

「眼鏡、おしゃれだね。縁が金色。」

 

「安物だよ。度、入ってないし。」

 

「伊達なんだ、でも似合ってる。」

 

掛けてみる?とフクロウくんは言った。私は頷くと彼から金縁のそれを受け取り、おもむろに掛けてみた。

 

「……どうかな。」

 

「凄くいい。眼鏡似合うんだね。」

 

生まれて初めて丸眼鏡を掛けた。鏡がないので自分ではどんな姿になっているのかわからないが、フクロウくんが笑顔になっているのをみて安心した。少なくとも、変ではないのだろう。

 

私たちはメニュー表をざらっと見て、サラダと肉料理、それからパスタを頼んだ。お酒飲む?と聞かれたので飲むと答えると、フクロウくんは肉料理に合うワインを店員に尋ね、店員がお勧めする赤ワインを注文した。

 

「お腹に余裕があったらデザート食べようね。」

 

フクロウくんはそう言ってまた笑顔を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の会食はとても楽しかった。今日がほぼ初対面にも関わらず、そこまで緊張することなく話せたし、向こうも心を開いて話してくれた。互いのセクシャリティのことや、好きな映画、漫画、作家などの文化の話、出身地や受験の思い出など。私はフクロウくんと話していると不思議と、就職が決まっていない自分への焦りや家族のことなど、思い出すとしんどくなるようなことを忘れて、安心することができた。フクロウくんは年齢こそ一個下だが、話し方や趣味、嗜好などは大人びて見えたし、声のトーンが落ち着いており、聴いていて心地よかった。

 

グラスに注がれたワインを二度ほど飲み干し、3杯目を注いでもらった時だった。フクロウくんは私の顔をしばらくみて、両手を顔の前で交差させてじっとしていた。先程まではあまり目線を合わせない印象だったから、まじまじと顔を見るのは新鮮だった。つぶらな、柔らかく垂れた瞳。色白の肌は頬から顎にかけて少しだけ青くなっているため、恐らく今日髭を剃ったのだろう。顔の正面まで髭の跡があるので、きっと伸ばしたら顔を覆うくらいにはなる。手の甲にも体毛があり、薄いとは言えないが、それを汚らしいとかそう言う風には思わなかった。むしろ穏やかな顔の印象に対して、ごつごつした手がギャップを生んでいた。指はなだらかにカーブを作り、関節にははっきりと凹凸があり、中に骨が入っていることがわかる。

 

「気になる?」

 

フクロウくんは言った。

 

「うん、手きれいだなと思って。」

 

するとフクロウくんはゆっくり私の方に手を伸ばして、私の手に触れた。

 

「そんなことないよ。がみくんの方がきれいな手してる。」

 

手の甲から伝わるほのかな冷たさ。掌を包み込むように、フクロウくんの大きな手が蓋をする。湿度のこもった冷ややかな手は、私の体温と混ざり合って温もりに変わっていく。顔を見上げると、フクロウくんの表情が見えた。瞳の奥に淡く茶色がかった虹彩が覗いている。互いに見つめ合い、しばらくの沈黙が流れる。心拍数が上がっていくのを感じる。

 

「今日さ、会ってみて。どうだった?」

 

フクロウくんは聞いた。私は少し考えてから、言った。

 

「素敵な人だなと思ったよ。」

 

自然と笑みが溢れていた。フクロウくんは目と口を少しだけ開いた。息を吸って、ふふ。と声に出して笑うと、私の手を強く握った。

 

「じゃあ、さ。付き合いたい。」

 

その言葉は私の体内に浸透して透明になる。体内で脈を打つ心臓の音だけが聞こえている。フクロウくんの言葉に、呼応するように私も手を強く握り返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、私たちは付き合うことになった。食後のデザートを食べて、帰りはバスは使わず歩いて帰ることにした。信号待ちで並んで待つと、体格の違いからか兄弟のように見えてくる。途中、現実離れしているかのように足元がふわふわし、歩いているのか泳いでいるのかよくわからない状態になっていた。先程のフクロウくんの言葉が繰り返し思い出される。

 

付き合いたいと男性から言われたのは初めてだった。告白される瞬間は、空気でわかると言う人もいるが、私には全くわからなかった。いくら態度で、行動で好意を示されたとしても、その一言を言われるまで相手に好かれていると思えない。告白して、成功するしないとは水と油のように分離しているものではなく、ドレッシングのように攪拌され境目がわからなくなっているものだと思う。あらゆる可能性が同居していて、それが凝縮されたものが言葉として出てきた時、ハッとするのだ。いかに自分が鈍感だったかを自覚する。相手の好意がはっきりと形になるまで、そのことに自信を持てない。

 

だから、フクロウくんからその言葉が出てきた時、嬉しいと言う気持ちよりも驚きがあった。私なんかで本当にいいんですか、私のどこを好きになったんですか、と。

 

でも私はそんな疑問をフクロウくんにはぶつけずに、ただその言葉に黙って頷いて、笑うことしかできなかった。褒めることは簡単にできたはずだがそうはせず、あえてフクロウくんについては何も触れないように話していた。どうしてなのかはわからないが、その時は褒め言葉よりもっと大切な何かがあるように思えた。

 

不意をつくような告白の後、私たちはしばらく手を握りあった。冷たかったフクロウくんの手は温まり、優しく撫でると毛がふさふさして動物を撫でているような気持ちになった。今、2人で並んで帰っている。歩幅を合わせて、呼吸を感じて、夜の坂道を登っている。話している内容はなんでもいい。ただ今は一緒にいることが唯一の正解なのだと、直感でそう思った。

 

分かれ道に着いた時、お互いに静かになった。このまま帰ってもきっとまたすぐ会える、それはわかっていたが、私たちは歩みを止め、じっとしていた。薄く雲が白んで、月の周りを覆うように伸びている。辺りは人工の明かりが小さく点を作り、四角い箱の中にそれぞれの生があることを示している。時間は止まったように穏やかで、今日が無ければきっと何もない夜だったろう。1人で過ごすことが当たり前になった私にとって、何でもない日が特別な日になるとは夢にも思っていなかった。

 

すると、フクロウくんが言った。

 

「こっちをまっすぐ行くと自分の家。」

 

指差した方の道はまだ一度も歩いたことがない道だった。

 

「家、広い?」

 

「そうでもないよ。……いや、ちょっと広めかな、多少。」

 

「行きたい。」

 

咄嗟に口をついて出た一言だった。フクロウくんは私の方を見た。

 

「あっ、いや、嫌じゃなかったらだけど。」

 

「嫌じゃない。むしろ、おんなじこと考えてた。このまま帰るの嫌だなって。」

 

私はそっか。と返事をした。白い息が拡散される。フクロウくんはそっと私の手を握ると、私をリードするように先ほど指差した方へと歩みを進めた。

 

フクロウくんの家は私の家からもさほど遠くない、年月を感じる住宅街の一角にあるアパートだった。階段を登り、二階に着くと鍵を開け、私たちは部屋の中に入った。

 

部屋の中は大きなベッドを中心に、恐らく制作で使うだろうキャンバスや、過去の油絵、シルクスクリーン、版画などが置いてあり、奥にはテレビがある。本棚の中にはこれでもかと言うくらい本が並び立てられており、溢れた分は外に平積みされていた。私の家よりもはるかに物が多い。

 

「ごめんね、散らかってるけど。その辺に座って。」

 

「ありがとう。」

 

「お茶、飲む?」

 

フクロウくんは聞いた。私は飲むと答えるとフクロウくんはキッチンの方に入っていった。私はベッドに腰掛け、コートを脱ぎ畳んで近くの椅子の上に置いた。腰を落ち着かせると、自分がふわふわと浮いていくような妙な錯覚があった。

 

しばらくしてフクロウくんが戻ってきた。手元にはティーカップが二つ。温かいお茶が入っており恥ずかしそうに湯気を立てている。私たちは2人でベッドに横に並んで座り、お茶を飲んだ。

 

「この部屋寒いよね、ごめんね。」

 

「いや、大丈夫だよ。」

 

「そっか、一階が駐輪場だから底冷えするんだよね。」

 

確かに、足元は多少寒かったが温かい飲み物を飲んだので平気だった。正面のローテーブルにはリモコンやティッシュの箱、それに本が積まれており、隙間からは栞が垂れているので定期的に本を読む人なのだとは思った。私は平積みされている一番上のものを手に取った。

 

「何の本?」

 

ボードレールだよ。詩集。」

 

黒地に金の装飾が入っているシンプルな表紙だった。中を開いてみると、何十年も前に印刷されたであろう、荒れた印字がされた文章がいくつか出てきた。ページ数はそこそこある。

 

「何となく買ってみたけど、そんなに面白くないね。」

 

フクロウくんが言うように、私にはその詩の良さはいまいち分からなかった。そっと本を元に戻す。また沈黙が流れる。フクロウくんは手元をそわそわさせて足をぴったりくっつけて座っていた。大柄なのに、座り方かわいいんだ。

 

「あのさ。」

 

私は口を開いた。

 

「今日ありがとね。まさか両思いだったとは思ってなくて、びっくりした。」

 

「そうなの?がみくんは、おれのどこが好きなの。」

 

私は顎に手を添えてしばらく唸った。好きなポイントを聞かれると言葉に詰まる。

 

「なんだろう……最初英語の授業で見かけた時に、かっこいい人がいるって思ってたんだよね。でもまさかその人がゲイで、自分に告白してくるなんて思ってなかったけど。」

 

「かっこいいってのは、見た目のこと?」

 

私はお茶を一口飲んでから答えた。

 

「うーん、自分でもよく分からないけど、雰囲気かな。落ち着いた寡黙な感じが好きなのかも。」

 

「おれもね、英語の授業で自己紹介したときさ、握手したよね。あの時かわいい子がいるって思ったよ。」

 

「どこがかわいかった?」

 

「顔かな。性格は知らなかったしね。」

 

顔を褒められるのは純粋に嬉しいことだ。ましてや、好きな人からだと余計に照れてしまう。私はにたついた顔を見られないようにティーカップに口をつけた。

 

フクロウくんはそんな私を見て互いの距離を詰めた。そっと私の手に自分の手を重ねる。

 

「この手も、すごく好き。」

 

「爪、ボロボロだから汚いよ。」

 

するとフクロウくんは袖を捲って自分の腕を見せた。太く逞しい腕には、無数の切り傷のような赤い線が隙間なくついている。

 

「おれもそういう癖あるから。おんなじだよ。」

 

私はフクロウくんの腕を触った。簀を触るように段差があり、撫でると感触が気持ちいい。

 

「洗濯板みたい。」

 

はは。とフクロウくんは笑って、ふと私たちは顔を見合わせた。すぐそばに、フクロウくんの身体がある。

 

私は太ももを近づけた。衣服越しに肌が密着し、熱を持っていることが伝わる。吐息が聞こえるくらいまで、顔を近づけてみる。フクロウくんの丸い目がそこにあった。茶色がかった瞳はつるりと潤いがあって、今日食べたデザートのようだった。私は、フクロウくんの鼻に自分の鼻をくっつけた。

 

「……キスしていい?」

 

フクロウくんが声を発した。私が頷くと、フクロウくんは優しく唇を重ねた。柔らかく、表面は少しざらついた感触。鼓動が早くなり、体はじんわりと熱を持つ。呼吸をする音がすぐ耳元で聞こえ、それは立体的に、目を閉じても相手の姿がよくわかるように私に、フクロウくん全体の質感を教えてくれている。

 

どれくらいそうしていたかわからない。私たちはただ唇を重ねて、それで暫くじっとしていた。この先どうなるかはもう分かっている、私も当然その先をしたい。ただ、この場はフクロウくんに委ねたかった。がっついていると思われたくなかったし、なにより告白してくれた相手だから、理想の進み方があるだろう。私はそれを尊重したいと思った。

 

「今日はここまでにしよう。がみくんのこと、ちゃんと大事にしたいから。」

 

私はその言葉を聞いて、わかった、そうしよう。と答えた。私の熱は余韻を持ってじんじんと足先まで熱らせる。体内で純白の天使が羽をたたみながら脚を抱えている。眠るようなその目は半円状にカーブを描いて、まつ毛が艶々と輝きを持ち、落ちた羽は空気を含んだようになびいている。私はその天使に肩を預けるように、もたれて蹲る。目を閉じると沢山の光の粒が流線型になったり、回転したりしながら反射して、私はその光の向こうへと腕を伸ばして暗闇に触れる。生菓子のような感触に、わずかな温もりがあり、私はそれが愛という名の片鱗であることに、その時はまだ気づかなかった。