私たちはその後、何度かセックスをした。2人で寝そべってもまだ余裕のある大きさのベッドの上で、舌を絡ませたり抱き合ったり、いわゆる男女が行うようなことは一通りやった。そうすることが幸せだったし、相手が求めてくれることに応じることは私の中の欠けていた何かが埋まるようで、充足感があった。"生活"が敷き詰められていくような気がして、高い絨毯の上で寝そべる猫のように、幸福を実感していた。それに何より、恋人に没入する行為を美しいと思った。
互いの性器に触れ、射精する行為を飽きることなく、何度も、あらゆる角度から行った。始まるまでの間は、誰が言い始めるでもなく自然に、キスから始まった。最初はくすぐったく唇を重ねるだけだが、そのうち片方が舌を出す。するともう片方も口を開け、舌を包み込むように口に含む。互いの舌が混じり合わさると、下半身がそれに追従するように勃起し、固くなったそれを撫でると背中から首筋に掛けて快感が波を打つ。舌先に神経を集中させ、快楽の海に身を委ねているとその内、上着の下から手が差し込まれ、両手を挙げるように言われて服を脱がされる。素肌があらわになると、相手は私の顔をじっと見つめ、首筋に顔を押し付けながらキスをする。私が喘ぐと、嬉しそうな顔をして両手が私の身体を摩る。そうした一連の流れを繰り返しながら、膨張した片割れを馴染ませて、何回かの痙攣の後に穏やかな時間が始まる。
この行為を愛と呼ぶのだろうか。私はこの人のことが好きだ。一緒にいて幸せだし、私に対しても愛情を示してくれる。性行為をしていない時間もなるべく2人で過ごしたし、そのことを恥じることも隠すこともなく、私たちは堂々としていた。きっとその姿は密林の中にひっそりと佇む真っ白なお城の、ちょうど天辺の小部屋にある絢爛なベッドの上で眠る姫と、それを見つめる王子様のように見えていただろう。幸福すぎて近寄れない、いばらの領域。
王子のキスで、姫は目覚める。2人は永遠に、お城の中で幸せに暮らしましたとさ。
そんな密閉した関係が私たちにはあったと思う。
ひと月ほど経った頃、私たちの会う頻度は減った。卒制のプレゼンが間近に迫ってきたからだ。
残すところ2週間、自分でも驚くが、毎日抜かりなく一定の時間を作業に費やしていた。それなのにやることは山積みで、イメージの4分の1も形に出来ておらず、しかし今回ばかりは絶対に失敗で終わらせたくないという思いから、手を抜ける場所、抜かない場所を選別し見せ場を作った。後輩にも作画ソフトが使える子にお願いして、素材に色を塗ってもらったり、簡単な作画を手伝ってもらったり、イラストを描いてもらったりした。常に学校で作業し、眠くなったら教室のソファで仮眠する。家に帰るのは風呂に入りたい時と着替えたい時だけ。私は誰かの監視の目が無いとまともに締め切りも守れないような人間だから、こうするしかない。
合間を縫ってフクロウくんの制作に顔を出したりしていた。彼は4年教室があるフロアの暗室で、フィルム写真を現像していた。現像液に浸されたトレイが並べられた部屋には、つんと鼻につく酸みのある匂いが漂っていて、真っ赤な照明にじんわりと慣れ、私の瞳孔は大きく開く。部屋の奥のカーテンの隙間から、のそりと動く大きな人影を見つけると私は声をかけた。
「順調?」
「ああ、りゅうのすけ。今は試験的に脱色してる。色味が綺麗に出ないんだ。」
いつの間にかフクロウくんは私のことを下の名前で呼ぶようになっていた。
「暗いから分からないけど、これ映ってるのは君の写真?」
「そうだよ、家で撮った自画像。何枚も同じ画角で撮って、おれだけが動いてるの。纏わりつく影みたいに見えるでしょ。これを最終的には一枚で見せたいんだけど。」
私はその言葉を聞いた後、壁一面にずらっと並べて干されている真っ黒な影絵のような写真を改めて見た。タイムラプスの映像のような一枚になるのだろうか。想像がつかない。
写真の中のフクロウくんは踊って見えた。きちんとした振付があるものではなく、発作的に、衝動的に魅せていく、即興性のあるダンス。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』という映画を見た時のことを思い出した。ビョーク演じる主人公が妄想の世界に逃げ込む度に、奇妙でもどかしい踊りが始まる。色合い、湿度といい、あの映画の陰鬱とした感じに近い何かをフクロウくんの写真は持っていて、ただ当時の私はそれをうまく言葉にすることができなかった。
「完成が楽しみ。」
そんな煙に巻くような言葉に逃げた。私は彼の作品について何かいうことを避けていた。余計なことを言いたくはなかったし、実際出来上がってみないと評価のしづらいものであることに間違いはなかったからだ。
世の中には言葉にする事で分かりやすく、便利になっていくものがある。デザインのものの考え方だ。対して、曖昧なものを曖昧なままに表現しようとする試みもある。それをアートと呼ぶには些か強引だが、内省的で寡黙的なそれらの佇まいは、慎ましさを身に纏っているようにも見える。
「気配のようなもので勝負できること。」
それがデザインでもアートでも大事なのだと、講演に来ていたOBのデザイナが言っていた。足し算ではなく引き算、紙の余白を"無"として扱うのではなく、"白"として残す。そんなデッサンのように穏やかに、清廉に主張することこそが美しいのだと。
今まで私は、デザインとは作りたいものを頭の中で明確にし、言葉にしてまとめ、わかりやすく人に伝える事であると思っていた。もちろんそういった伝達性、明るさが必要とされる物事は多い。しかし、私はそれが苦手だった。分かりやすくしすぎて陳腐になったり、言葉に囚われて初心を忘れることが多かった。そうではなく、イメージをあえて言葉にせず、色や形、動きや音などに落とし込みながら手探りでイメージを伝えていくやり方で作った作品は、人を惹きつけたし、自分でも気に入った。描き始めからここからここまではこの色で、と決めてかかるのはナンセンスだ。絵の具を混ぜ、いい塩梅に混ざったらそれが正解であり、結果は後回しする。そんな実験的な態度、遊び人のような心が、制作では重要なのだと思う。
インスピレーションが湧いたまさにその瞬間、それこそが一番鮮度がいい状態であって、そこから表現という装置を通り、思考は研磨されていく。その過程でいかに鮮度を落とさないか。ファーストインプレッションそのものを出力するか。そうして出来上がったものは媒体がなんであれ、詩的な振る舞いを帯びる。
曖昧なものを曖昧なままにしておくことの大切さを、今更になって実感していた。青年期には自然と出来ていたことが、受験を経て成功体験を与えられると途端に霧消してしまった。私は大学で、アイデアにコンセプトを付けプレゼンするという一連の流れを叩き込まれ、それが出来ていない学生は劣っているのだと信じていた。それをこなせる事が、学内で評価されやすいポイントだったからだ。
しかし、人間には向き不向きがある。私は頭を使う事が苦手だった。人の興味を引いたり、共感を得られるアイデアは思い浮かばず、自分視点でしかものを考える事ができなかった。どこまでも自己中心的だから、今作っているものが社会にどう着地し、どうより良くしていくのか分からなかった。ただ手を動かして自分の気持ちのいい色味や形、動きなどが出来上がることに満足して、それらに後付けでコンセプトめいたものをくっ付けていた。表現が先にあって、発想を後付けする方法だ。普通、逆じゃないのかと思う。
だが今思えばそれは私にあっていた。制作の細かいことはブラックボックス化している方がしっくり来たし、途中で言語化するとなぜかやろうとしていたことから逸れていくような違和感があった。教授への中間発表でも『papa』のコンセプトが伝わらなかったようで、そこをボロクソに批判された。仕方がない、自分でもよくわかっていないのだ。ただ天命がそこにあって、思考を止め指先を動かしているだけだから、それを人に説明するやり方など分かるわけがない。
一度前進し始めた私は、止める事のできない獣だった。教授にボロクソ言われても、知るかと全部跳ね除けた。実際に作るわけでもない他人に良さを決められてたまるか。おれだけが責任を持っている、おれがこいつの良し悪しを決めるんだ。
毎日毎日PCに向き合って作画をした。間に合わないと嘆く暇があったら手を動かした。全ては、私の中で見えている結末を描くため。
茫然と波打つ水平線を見つめる。衣服はなびき、はためいて、その影を大きく見せる。風が強く吹いて今いる位置をあらわにすると、手足は遠くに伸びて、重力は纏わりつくようにして肌に皺を作る。皮膚の下では朱色の血液が、陽の光に当てられ黄金に光っている。
瞬きも忘れて明日を追う、有象無象が犇く海原。ここが果てだとして、先には未来があるだろうか。辻褄が合わない2人の運命を固着させ、飢えた老婆のように呻く。そうすることが幸福であったと同時に、私には今を確立する先鋭さも、自尊的感情も、なにも持ち合わせていなかった。手のひらに収まりきらない衝動を発露させ、ほほえむ君を眺める。ここは地獄か、明るさこそが支配する楽園で天使がラッパを鳴らす。植物が根を生やし、爛熟に垂れた実は豪快に、この世の終わりを知らせる。柑橘の匂いと、ばななの甘みが混ざり合って、破滅的だと思う。まだらに広がる風味は、私がどう転んでひっくり返っても覆せないものだろう。普遍的なものだろう。そんな色を濃く落として、私の体内を突き抜けるものがある。それは今までに受けた傷や悦楽を、じっと捉えて離さない。泣いても、叫んでも取り繕えない未来の赤さだ。
『papa』というアニメは未来の話です。
そんな言葉が繰り返し頭の中を巡り、聴き慣れた歌詞を口ずさむように脳内に印をつける。狂ったように鳴り響く楽園のそれは、私が私らしくいられるようにと身体に温もりを授け、柔肌を縫うように走る鮮烈さは、今この瞬間にも顕現して心をぐちゃぐちゃにする。通り雨でしたか。くぐもった声からは君の形がわからない。わからなくてもせめて、そこにいるという事実だけを抱きしめて、眩さに掻き消されてしまいたい。
声は薄く引き伸ばされ、やがて風の音にかき消された。遠くにある影がほんの少しだけ傾くと、火をつけた燐寸が黒ずみ、命が失われていくのを垣間見ていた。私が視線を落とすと影はゆっくりと回転し、なびく髪が動きに合わせて左右に揺れ、ついにこちらに顔が見えるほどの角度となった。目と目が合う。
男は全てを悟ったかのように笑っていた。明るく照りつける日差しに瞼を閉じ、嫣然に笑う姿は、全てが崩壊した世界の中で無邪気に振る舞う天使のようだった。瑞々しく染まった頬にはえくぼが出来ており、首筋には焼けるような赤色が、生命の持つ光として主張する。蒸せ返るような湿度の中で、肉体だけがごろんと横たわっている。祝祭とはこのことなのだろうか。
しばらくそうやって、未来のことを考えた。私は今境界線に立っている。在ること、無いことが重なり合う分水嶺。目を閉じ、耳を澄ますとどこかから風が吹いている。それがどこからなのかはよくわからない。ここには太陽も月もなく、地平を照らす明るさだけがあるからだ。星がなければ人は自分のいる位置を確かめることができない。ただ、それでも『風が吹いている。』『それは私達の方に向かって。』『確実に。』
背中を押されるように、身体だけが前に倒れる。それに追従するように意識が動くと、私は思った。この身体とは私のものではなくただの借り物なのだ。たまたま器がこのような形をしているだけで、本体はこれではない。だとしたら今、私が認識している"私"とはなんなのか。どこからどのようにやってきたのか。答えは出ない。
巡る思考に居ても立ってもいられず、私は教室出た。冬にしては珍しく雲一つない快晴だった。早朝の刺すような寒気に肌がこわばる。吐く息は白くほどけ、グラウンドには枯れ木のような薄い茶色や、色素の抜けたような緑色がほんの少し残った芝生が広がり、私は倒れ込むようにしてその場に寝そべった。朝露が頬を濡らす。
おもむろに携帯を取り出して、カメラを起動した。レンズ越しに、芝生と太陽を映した。光がハレーションを起こし、筋を作って燦々と輝いている。シャッターを押して画面を確認すると、光をたくさん含んだ写真はピントが合っている部分をほんの少し残して、フォーカスが掛かっていた。私は重力に逆らうようにして身体を起こし、近くにあるベンチに移動し腰掛けた。しばらくぼうっと制作のことを考える。ふと、隣を見ると蟻が歩いていた。おろおろと、触覚を動かしながら本能だけを頼りに進んでいく。私はそれを見つめて、思った。
この蟻も、懸命に生きているのだ。その進むべき道を、誰が決めているというのだろう。
携帯を持つ手を蟻の上にかざし、感覚だけでシャッターを押した。撮れた写真はどことなく美しかった。
そうして、東京に向かうためバスの予約をした。10時間掛かった。なんか変だなとは思っていたが、もう分離しているのだからある意味当然であり、そこはさして問題ではない。人混みを縫うように身体は前に進んだ。横浜の赤煉瓦倉庫を横切って、古びた建物に入る。沢山の人が小さな箱の中で整列していて、私もその中に加わった。そこで何が起きたのか、何を考えていたのかはよく覚えていないが、ただ私は確かに、そこは私の居場所なんだとはっきりと感じたのだった。
クリスマスを目前にした12月の中旬ごろ。私は完成させた『papa』の作品を学部の皆の前で発表した。みな静かに聴いていた。私は、なんだか途方もなく楽しくて、アニメーションに流れている歌を一緒に口ずさんだ。身体を揺らすたび、私もアニメの中の男性と一緒に踊れているような錯覚があった。
その結果がどうとかっていう話はあんまり無くて、私はやれることはやったのだし、あとはなるようになれば良かった。プレゼンの後、フクロウくんにも見せた。フクロウくんは静かに笑った。
「いいね。」
プレゼンの後はすぐに冬休みが始まった。私は全部解放された安心感と、フクロウくんへの会いたさでずっと彼の家で過ごしていた。クリスマスは2人でケーキを食べ、ドリアを作った。ホワイトソースからだ!そんなことってある?でも出来立てのそれがオーブンから出てきた時は本当に嬉しくて、夢中になって食べた。フクロウくんが好きなワインと、ちょっとしたチーズやオリーブなんかも添えて。テレビをつけながら2人で過ごした。
毎日を一緒に過ごしていて、不快になることは一切なかった。脳みそがふわとろのオムライスになっていくような感じで、私は喃語しか喋れなかったし、かなり幼稚だったと思うがフクロウくんは全部許してくれた。精一杯甘えるとその度抱きしめてくれたし、頭も撫でてくれて、それはもうなんていうか。なんだったんだろう。きっと、幸福そのものだったのだろう。にゃむにゃむしたし、ぽよぽよしたし、チェケチェケもした。そういうことなんだろう、きっと全て。たぶん。
フクロウくんと私は、一緒にいる時は気付いたら肌着になっていることが多く、その上に寝そべることが多かった。彼の身体をまたぐようにして顔と顔を合わせる。薄暗い部屋の中で、彼の表情がはっきりとわかる。フクロウくんの黒目は透き通っており、つぶらで、程よく垂れた瞳は見ていて全然飽きなかった。こんなに愛らしい人が私のことを好いてくれるのが不思議で、でも私が思う私とフクロウくんが見ている私は全然違うのだろうし、一緒に身体を重ねられるという事実だけがそこにある気がして、永遠のようだった。
私は携帯を自分の顔の前に持ってきて、両手で彼を覗くようにしてカメラを起動した。
「やめて。」
フクロウくんは言った。
「なんで。」
「自分の顔きらいだから。」
「そうなの?こんなにかわいいのに。」
フクロウくんは左腕で自分の顔を隠した。
「誰にも見せないから。」
「それでもいやだよ。」
私はそっか。と呟くと、腕で半分隠されたフクロウくんを撮影した。
「ほら。」
私がフクロウくんの方に画面を向けると、彼は訝しげに携帯を手に取り、右手の親指と人差し指を開くように画面をなぞった。拡大されるフクロウくんの顔。
「やっぱりだめ。納得いかない。」
「どこが?」
「顎。」
そういってフクロウくんは画面に映る顔の下半分を撫でた。何言ってるんだろう、全然気にならないのに。むしろ、少しくらいふっくらしてた方がかわいいのに。
窓から差し込む日差しが段々と明るくなり、部屋の中は淡い青色から灰色に変わる。私はフクロウくんの身体に寝そべるようにして身体を密着させた。彼の手が背中を撫でる。私はフクロウくんの顔に自分の顔を近づけ、鼻先と額をくっ付けた。しばらく見つめ合ってから、私たちはどちらともなくキスをした。
年末年始が終わり、1月になって。私は全国の美大芸大の学生が作った映像作品を上映するイベントに参加するため、美術館に足を運んでいた。上映中に、私の気持ちはどこか遠くにあった。自分が過去に作ったミュージックビデオが流れると、他の作品と比べてしまい肩身が狭かった。もっと出来たらよかったな。画面の密度はもっとあった方がいいな。もっと時間かけたかったな。そんなことを思いながらも、過ぎてしまったことに後悔しても遅いし、あの時限られた時間と人員の中でやれることはやったのだと自分を言い聞かせた。
上映終了後、私は美術館のホールを後にしようとした。すると、その場にいた教授が声をかけてきた。
「今から藝大のアニメーション専攻の人たちがディスカッションするらしいから、君も参加したら?」
聞くに、藝大生もこの美術館に来ており、自身が制作したアニメーションをそれぞれが発表しながら座談会のようなことをするのだという。正直、ものすごく行きたかった。しかし私の大学の人は皆帰ってしまったし、知り合いもいない中かなりアウェイな状態だ。悩んでいると、教授は続けて言った。
「君の『papa』、良かったんだから見せてきなよ。」
言われるがままにホールに残ると、ホールの前方のスペースが空けられ楕円になるようにして椅子が並べられた。中央にはテーブルが置かれ、奥から藝大生がぞろぞろと歩いてきた。20人くらいだろうか、私たちは椅子にそれぞれ腰掛けて1人ずつ順番に発表した。私は、一番最後だった。
藝大生達の作品は、どれも時間と手間をかけているのが伝わってきたし、普段考えていることや作品のメッセージなんかもそれぞれで違っていて、皆真剣に制作と向き合っているのだということが伝わってきた。纏う空気が全然違う。私の大学の卒業制作はみな楽しそうにはしていたけれど、どこかよそよそしくて、就活が終わったことへの安堵からか人生がこれからも続いていくのだということを皆忘れているみたいに、お祭りごとのような賑やかさがあった。作品へのコメントも応援一色で、本当は何を思ったんだろう。きっと何か気になることがあったはずだ。なのに、簡単に「きれい。」なんかで終わらせるような感想ばかりで、薄気味悪かった。一体感で統一されたのっぺらぼうのような、強烈な同調圧力が学部全体を覆っているみたいで、窒息しそうだった。
上手く呼吸できてなかったんだな。就活へのギラついた意識と全能感と、大企業への忠誠心。それらがぐつぐつと煮えたぎる鍋の中に放り込まれて煮凝りとなったような不自由さ。ずっと身動き取れなかったんだな。周りに流され、盲目になり、本当に大事なことを見落としてきたんだな。私は正しい息の吸い方、吐き方を思い出したかのようにスクリーンを見つめた。
2時間ほど経った後、私の番になった。私は持ってきたUSBを係の人に渡し、データ名を伝えた。スクリーンに桃色の画面が投影される。自己紹介を終え、再生ボタンが押された。映し出される、『papa』の文字。
「このアニメは、青年がお父さんになる過程を描いたものです。お父さんといってもそれは子供を持つという意味ではなく、自立した男性になるという意味です。」
皆、黙って画面の方を見つめていた。
「制作は全てPhotoshopで行いました。絵コンテとしてラフを描き、あらかじめ何の色を使うかを散りばめておき、それを後から清書して、動きを加えたものになります。」
会場の1人が手を挙げた。
「この、スクリーンの中の黒い影は実写ですか?」
「はい。ロトスコープという手法を使って、実写をトレースしました。」
「主人公の男性も実写ですか?」
「いえ、この男性の動きは全て私の感覚です。」
通訳の方が、私の一言一言を英語に翻訳し、その場の皆に共有する。いくつかの質問に答えた後、私は席に座った。緊張と高揚感でどうにかなりそうだった。周りが静かに拍手すると、登壇者の1人が私に声を掛けた。
「すごく良かったです。続き見たくなりました。」
その人は笑みを浮かべながらこちらを見ていた。その言葉を聞いて、私は自分の中の色々な感情が紐解けていく気がした。ありがとうございます、と会釈する。
全員の発表が終わり、私たちは後片付けをしていた。テーブルや椅子を隅の方に重ねる。その後、藝大生達は打ち上げに参加するようだった。私は帰ろうかと思ったが、教授に声をかけられた。
「君も来なよ。」
遠慮しようかと思ったが、その教授があんまりにも楽しそうだったので、つられて行きますと答えてしまった。会費の3,000円を払い、藝大生に混じってタクシーに乗った。降りた先は長屋が立ち並ぶ観光地の細まった路地。木で出来た重厚感のある建物の、2階に上がった場所。
彼らに混じって制作のことや、自分のセクシュアリティの話をした。お酒や美味しいご飯を食べながら話すと、最初こそ緊張していたがそのうちリラックスしてきた。院生の内部事情とか、映像制作会社の裏話とか、自分が全然知らない世界の話を聞いていると、別世界のように感じていた東京が少し、実感を伴って現れてきた。
小一時間ほど経って、私は教授に声をかけられた。
「さっきのさ、『papa』だっけ。ちゃんと見せてよ。」
私は携帯に保存していたデータを教授の前で再生した。2分ほどの映像だったが、終わるまでかなり長く感じた。教授は言った。
「君さ、藝大院には来ないの?」
私は思わず頷いた。
「行きたいです。本当に、行きたいです。今日ここに来てすごく感動しました。」
教授は嬉しそうに言った。
「じゃあ来なよ!絶対受かるから!」
その時私は、嬉しさと同時にお金のことを考えていた。今はバイトもしておらず、親にお金をもらって細々と生きている。貯金は全くないし、東京に行けるかどうかすらわからない。就職も決まっていないし、卒業した後のことなんて、これっぽっちもわからなかった。ただ、教授の一言で未来がほんの少し明るく照らされた気がした。
その時隣にいたもう1人の教授の、着ているシャツの胸ポケットがなぜか手紙の形になっていた。私はそれが面白くて、接着される三角の部分を指でひらひらさせながら、言った。
「かわいいですね。」
その教授は困ったような顔を浮かべて、笑っていた。
ある時、Kから連絡が来た。
「久しぶり。今こっち戻ってきてるから会おう。」
私は以前Kと行った、街の片隅にあるこうじさんのバーで会う約束をした。フクロウくんにもそのことを伝え、来る?と誘ってみた。
「おれはバイトがあるから、行けそうだったら行こうかな。」
フクロウくんが先に家を出るのを見届けて、私は布団の中でしばし温もりを感じながら、着替える準備をした。私はフクロウくんと身長がほぼ同じだったため、彼の服をよく借りていた。フクロウくんの肌着を自分が身につけると、親密さそのものに包まれている気がして心地よかった。
待ち合わせ時間の少し前に、私はこうじさんのバーに着いた。ドアを開けると、こうじさんはいらっしゃい。と呟き、こちらを見るなり目を丸くした。
「あら!がみちゃんじゃない。久しぶりね〜!あの後全然来ないからもう来てくれないのかと思ったわよ。」
「すみません、色々あって。こうじさんもお元気でしたか。」
実際、色々あった。それはもうあり過ぎた。ただ、全部話したところで仕方ないし、そこはかとなくこうじさんも深くまでは聞いてこなかった。私はこうじさんと2人で話しながらKを待った。
ほどなくして、Kはやってきた。服装こそ以前のようなラフな格好だったが、その表情はなぜかげっそりと痩せこけ、元々細身だった体型はスリムというよりエッジの効いた骨々しい感じに変わっていた。骨格がしっかりしているためギリギリ病的とまではいかなかったが、それでも明らかに不健康そうな顔つきになったKは、私を見て「おす。」と声を掛け、私の隣に腰掛けた。
私は休学して5年生をやっていたが、Kは去年卒業して関東の実家に戻ったと聞いていた。こうじさんは、私とKに飲み物を聞いた。私たちは適当に、焼酎の割りものを頼んだ。
酒とおつまみが出され、一息ついた後こうじさんはKに聞いた。
「あんた実家はどうなの?なーんも連絡寄越さないで、急に帰ってくるなんていうからびっくりしちゃったわよ。」
Kは目線を一瞬上にした後、口元だけで笑って答えた。
「あーごめん。なんていうかもうどうでも良くて。」
「何がどうでもいいのよ。」
Kはおつまみを齧りながら答えた。
「帰る時、絶対うちゴミ屋敷になってんだろうなって思ってさ。帰ったら案の定(笑)酷いもんだったよ。おやじも大概、ろくでなしだとは思ってたけど、ここまでとはなあ。」
吐き捨てるようにKは言った。私はKのことを何も知らなかったが、その薄く尖った目つきからは明らかに家族に対して憎悪の感情を抱いていることが伝わってきた。
「おれのことなんてどうでもいいからさ。がみーはどうなの。元気?」
その時きっと、Kを慮るべきだったのだろう。しかし私は幸福の絶頂だったため、そんなKに対してほんの少しも気遣うことができなかった。
「彼氏できてん。」
私は満面の笑みでそう言った。Kは目を大きく見開いた後、こちらを訝しげに見つめ、そして口元を糸のように引きながら答えた。
「はあ?なんだよそれ。まじかよ。」
Kはしばらくカウンターに目を向けて、押し黙った。こうじさんは、あらそうなの?良かったじゃない。と嬉しそうに返してくれた。私はたぶん、Kにも見せたかったのだ。私の幸せを、Kにも喜んで欲しかったのだ。
子供のように笑みを浮かべる私を見て、Kは言った。
「ま、お前人生棒に振ったしな。」
一瞬、Kが何を言ったのかよくわからなかった。場が静まり返る。
「あんた言葉に気をつけなさいよ。」
こうじさんはすぐさまフォローしてくれた。私はその出来事に、しばし呆然としていた。Kは私の就職が決まっていないことを誰かに聞いたようで、それでそのようなことを言ったのだと思う。ただ、そんなことを言うのは人としてどうかと思ったし、第一そんなに就職がしたいなら君もうちの専攻を受ければ良かっただけの話だ。就職せず卒業する人なんて、美大には大勢いる。だけど、私は痛みを回避するように話題を変えた。Kから向けられた剥き出しの悪意を、真意を、わかっているくせに無かったことのようにして振る舞うしかできなかった。ただ、自分の中にしっとりとした暗い気持ちが積もっていくのだけはわかった。
ほどなくして、フクロウくんがこうじさんの店にやってきた。フクロウくんはKを見るなり目線を逸らした。私がKに、彼のことを紹介すると、Kは驚いた顔をして私を見た。
「お前、こう言うのがタイプだったんだ。」
Kの一言に、フクロウくんは顔を伏せるようにして無言でバーを出てしまった。私はごめん。と言うと、こうじさんにお金を払ってすぐにフクロウくんの跡を追って家まで帰った。
家に着いて、フクロウくんにKのことを聞いた。2人は以前から互いがゲイであることを知っていたが、フクロウくんはKのことをよく思っていなかったらしい。
「あいつ、嫌なやつだよ。」
フクロウくんが誰かを嫌うなんて思ってなかったし、そんなこと全然知らなくて、私はフクロウくんが傷ついてしまったのだと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。背中をさすって、ごめん。と呟くと、フクロウくんは気丈に振る舞った。
「りゅうのすけが気にすることじゃないよ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
私は先程、Kに言われたことをフクロウくんに伝えた。フクロウくんは辛かったね。と言い、私の身体を抱きしめてくれた。その時初めて、私は就職が決まっていないまま大学を卒業することは、世間から見たらどうしようもないクズで、体たらくで、人生を棒に振ったように見えるのだと言うことを改めて客観視することができた。
その後、Kからメッセージが来た。
「昨日はほんとごめん。悪酔いしてた。」
Kは酔いが覚めたかのように謝罪の言葉を述べた。私はそれについて少し考えた後に、返信した。
「全然。気にしてないよ。」
送信ボタンを押した後、しばらくため息をついて、私は窓の外を見た。薄暗い空には電柱が、もたれ掛かる人のように電線を垂れ下げ、幾羽のカラス達が思うがままに鳴いている。絨毯の先にある素足の踵に、固いフローリングの感触が冷気を伴って伝わってくる。そうして、何度か瞬きをする内に、私は私のやるべきことを次第に理解し出した。思い立ったように指先は設定画面を開く。幾つもの警告をくぐり抜けて、選択肢が現れる。私はその無機質な文字を見つめて、決心したように『はい』を押した。
それから、Kと連絡を取ることはなかった。