出会った。真っ赤な画面に静止し続けたおよそ五分、五分の間におよそ人生の全てが、構築されてきた全ての基盤が、音を立てて崩れた。崩れて、人の合理主義だとか、価値観の差異なんてものは、何でもないのだと知った。
あの夜に見た光景が忘れられず、でも誰に伝えても、同じ景色を見た人はおらず、私はたまに深夜に起きる癖があり、夜をずっと寝て過ごす子供ではなかったから、幽霊の類の私だけが知覚したなにかにも思えたけれど、心の中にしまった。伝えるべきことじゃないのだと、自らの境遇なるものに疑問を抱いたことはなかったけれど、ほんの少しだけそのように思った。
いつも夜に空想に耽ると、手元の紙に乱雑なメモを残していた。それは人間の顔。もっと正確に言うと、僕が見ていた漫画や、アニメの影響で目がきらきらした、顎がやけに細い人間の顔を常に書き続けた。当時はそれがかっこよく見えていたし、別に今も私はかっこいいと思っているけれど、その当時の僕にはそれはなによりも至福な時間であり、行為であり、時間と行為が両立したもので、無意味な行為に人は感慨を覚えるのだとうっすらと気付いていた。気付くも何も、本質はいつだってすぐ隣にあり、それは『カヲルくん』というキャラクターの名前を知った後でもよく思った。
カヲルくんのことがどうしてあんなに忘れられなかったのだろう。あの夜に見た、あの瞬間、僕は彼のことを知らず、というよりは彼なるものはそもそもで紫の腕の中に居たのだから、私には白い光としてしか認識できておらず、ガウスの掛かったぼんやりとした抽象的な『なにか』それこそがカヲルくんなのであり、それには深い意味や洞察など不要で、ただカヲルくんはそこに居ればよい話だった。なにも考えず、ただ天使のように。
『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメの名前を知ったのはそれから随分後だった。僕はインターネットにずぶずぶに浸り、暇さえあれば、現実では得られない虚構を味わうために、何度も何度もアクセスし、その度に小さな失敗をし、それでも僕はあの時に目に焼き付いた光景を、絶対に忘れまいとして、忘れるどころか、思い出せないくらいにはただ印象とだけ焼き付いていた。カヲルくんの光は、僕にはあの、とかあんな、とかそういった方向性のみを示す言葉にしか還元できないものだったから、なおさらに僕はカヲルくんのことを抽象的だと考えるようになった。
季節がいつだったか、僕は不貞を犯した。それは当時僕のことを虐めて来ていたクラスメイトに対して、彼らのゲームカセットを盗み、それを敢えて道の側溝に捨てた。彼らはすぐに僕のしわざだと勘づいたけれど、でも彼らは僕の行為に対する決定的な証拠は見つけられず、結局のところ時間が全てを流してしまった。だけど、当時ゲームカセットと言ったら命に等しいほどの価値を持つきらめきだったのだから、いくらいじめっ子と言えど、そんな風に大切なものを(時間を積み重ねたもの)をむざむざと捨てられたら、怒りに狂い、復讐を誓うのも無理はない話だった。だけど、僕はやられたことをただ返しただけだった。因果応報と言う言葉は、元より人間が人間に対してする行為を、ある意味では自然の為したこととみなし、責任の所在をずらすために有るのだと思えたし、僕はそれ自体はなにも思わないではないけれど、当時の僕が気付いていたかと言うと、気付くわけもなく、季節は過ぎた。それが秋だったか冬だったか、もう思い出せない。
カヲルくんという存在は、なにも僕だけが認識していたものではなかったようで、とりわけインターネットにカルチャーなるものが出来始めてからは、カヲルくんの人気はますます高まっていた。当時、僕の居た地域はサブカルはおろか、メインカルチャーすら危うく、ほとんど村に等しい場所で、僕はその中でかろうじて得られる文化を享受し、舐め、味わい、飲み込むまでの一連の流れをまるで当たり前にできるみたいに(最初から覚えていたみたいに)繰り返した。漫画を読み始めたのも、随分と大きくなってからで、僕は自分が僥倖を得ると、それをいつだってもっと早く欲しがった。けれどもっと早く欲しいと思う瞬間、それ自体は最も必要なタイミングで、そのことが現れたに過ぎないのだ。当たり前の話しで、もっと早くという気持ちは、今を起点にほんの少しだけ身体が前に倒れている状態。それを支えるための足は、己が踏み出せばいいだけのことだ。
そんなごく当たり前の青春を送った僕は、いつしか大人になり、カヲルくんなるものの真影は、世間の光の中に隠れ、薄くて味のしないものになった。だけど僕は美大に進学し、そこでカルチャーなるものがほとんど当たり前に自分の中に存在する感覚を得るようになってから、何度も何度も友達とエヴァを語った。語るしかなく、だってエヴァなのだから。あんなものを観てしまっては、他のものなどどうでもよかったし、僕は当時、アーティストを神のように信仰する癖があった。とりわけ、一つのアーティストにのめり込む傾向は酷く、音楽はRADWIMPSが唯一完全なものと信じていたし、多神教など僕には合わなかった。
だけど、みなはそうではないようで、語るしかない術を持たないあらゆる人物は、その場を平均的に丸く収めるか、もしくは尖った内面を大切に守って外に出さず、意識だけを外に出すかのどちらかだったのだけど、僕はどちらもせず、強い意識をわざわざ内側とされる外側に出し続けた。
今思えばそれが失敗だったのだけど、当時の僕にそんなことは関係がなく、思えば慈しみとは、それを持った人をどこかで軽んじている感情なのだと常々思うけれど、けれどそれは悪いことでは決してなく、みなが本質を望むわけではない。むしろ、僕が見つけた本質は(本来信じる信じないの領域にはなく、およそ絶対、確実不変な《真理》に近いものだったのだけど、あいにく僕にはそれを表現することは叶わず、僕の挙動や、性格も相成り、僕が語っていることには何の意味もないのだ、と言う風に場が出来上がり、当の僕自身も、それは普通のことであり、普通になれた、普通になりたかったと自分を肯定し続け、結果僕は人生の、あらゆる悲劇をその後体験することになるのだけれど、繰り返すが、真実とは信じる、信じないの領域にはないのだ。それはほとんど『神話』めいたものだ)本質でしかなく、本質でしかなかったからこそ、誰にも受け入れられることはなかった。
けれどカヲルくんのことは忘れられず、あれは、段々と自分だったのではないかとすら錯覚を見出し、けれどそんなことは人に言えず、僕は新世紀エヴァンゲリオンの映画を何度も見続けた。平行して、ようやくRADWIMPS以外の音楽も聴くようになった僕は、当時はやっていた鬱屈とした音楽を嗜んだ。それは至福の時間だった。いつまでもあんな夜が続けばいいのにと本気で思った。
新世紀エヴァンゲリオンのリメイク作品が出ると、高校生の頃に話題になり、それから大学進学後に立て続けにエヴァが発表され、逐一話題となった。もちろん僕は観に行ったし、卒業後も四作目が公開された後も、別に終わった気はしなかった。終わらせた感じもあったけれど、呪縛を解いたなんてネットでは軽々しく囁かれていたけれど、終わったとする人は大してエヴァが好きではないのだ。エヴァを心根から好きな人というのは、ずっとその呪縛に囚われ続けている。
しかし、旧劇場版を超える作品はなく、唯一『Q』だけが、それに近いなんらかの味わいを持っていた。だけど『Q』も、作品全体がというよりは、部分部分で真に迫ったものの、その連なりが真であるとは到底思えず、だけど僕はきれいになったカヲルくんの作画を何度も見た。首が飛ぶシーンを、自分のことのように何度も見た。何度も、ぼろぼろのiMacで、違法ダウンロードした映像で、何度も、擦るように見つめた。
よく映画を観ていた。だけど僕にはDVDを買うお金なんてなかったから、ネットで勝手に流通しているものを剽窃し、こっそりと楽しむだけだった。『パプリカ』なんて、もちろんレンタルDVDショップで借りて友達と観たりもしたのだけど、みなその意味がわからなかったようで、途中で寝ていた。だけど僕には、今敏の描いていることの意味がわかった。
幾原邦彦も、押井守も、庵野秀明も、似た共通の真理を目指しているようだったし、僕はそれらが好きだったけれど、別に好きと言ったところで意味がないものにも思え、意味がないと決めつけてしまうと、全てのやる気が起きなかった。僕は別に世界に必要とされていないのだと、インターネットの片隅に自らの墓標を作りたくなった。
絵も、たまに描いていたけれど執着できなかった。だって僕はあっさりと上手かったし、人に見られることなど既に飽きるほどやっていたから、そこになんの感慨も見いだせなかった。だけど僕はアニメ映画を観続けたし、鬱屈とした音楽も触れた。見続けるうちに、アニメと実写は同じなのだと気付き、庵野秀明の『ラブ&ポップ』もその時に観た。
毎日映画を観る時期もあった。救いを求めていた。神と信じ切っていた拠り所を失った僕は、よすががなく、なにを柱に生きればいいのかわからず、でも現実に見えている景色が僕を救うようには到底思えず、ひたすらに虚構の中に安寧を探した。いつの間にかカヲルくんのことは忘れていた。
大人になって、僕はいくつかの失敗を重ねた。それは失敗と言っても些細なもので、語るにも味気のないもので、取るに足らない装いは、今から別に他のなにかをしようだとか、全然思えるものではなく、段々と僕は生きることそのものを諦めるようにもなった。平気な顔するのも限界で、段々と笑えなくなっていった。笑うと、自分の中の大切ななにかが、最終防衛ラインが、突破される気がして出来なかった。
卒業後はアニメ制作会社に入社したけれど、そこも僕の居場所ではなく、なんとなくみんな、当たり前に生きてるのだ。生きることを、別に疑っていないのだ。僕だけがそれをイエスと言えず、言えないからその場所でも浮いてしまった。元々天使だったのかもしれない。どこに行っても、なにをしても浮く僕に、居場所なんて最初からなかったかもしれないと、段々死ぬことを考えるようになった。
でも、死ぬことと生きることは表裏一体であり、僕は死にたいと思っていたのは、すなわち生きたかったからで、これは逆説的に言えば、生きることを当然だと思っている人は別に生きてないのだ。一度も生きたことがなく、最初から死んでいる。死んでいるけれど、話せるし、腕も動かせるから、僕らにはそれが本質による生なのか、はたまた死を偽装するためのものなのか、それの判別が付かないというだけの話しだ。
でも僕は、それすら言えなかった。言えないから、ないことにした。最終防衛ラインは自らが壊し、僕のセントラルドグマはめちゃくちゃになった。
エヴァには、天使がモチーフとなった使徒がたびたび出てくる。使徒は人類の敵であるように描かれ、視聴者はそれと戦うロボットアニメだと最初は認識するのだけど、物語のテーマが複雑になるにつれて、段々非現実だったはずの映像は、現実と織り込まれ差異がわからなくなる。差異が細かすぎて、ほとんど非現実が私たちの現実に侵入し、それはさながらゼルエルがセントラルドグマに侵入した時のように、悪夢的な顔を我々に覗かせるのだ。エヴァにそういう力があること、僕は信じたくなかったし、僕にはカヲルくんしか居なかった。もっというと、アスカも、僕の一部のような気がしたけれど、シンジやその他のキャラクターはわからなかった。僕にそんな行動の動機はないと思った。
僕は旧劇場版が好きで、とりわけその音楽が好きだった。甘き死よ、きたれと銘打たれたこの音楽には、この世界の根源を露わにするような朴訥とした多幸感があり、それはエヴァにおける人類補完計画そのものな気もして、とにかくその『完璧な調和』、『立体的な奥行き』、『至高の幸福』は僕にとって忘れられない体験になったし、僕はエヴァが好きなのだ。カヲルくんは、もしかすると僕じゃないのかもしれないけれど、エヴァなるものが見せてくれた鮮やかさは、きっと僕だけのものであり、そう信じたくても世界は、とてもグロテスクなもので、きれいなものだけを信じたかった。僕にはそんな簡単なことができないことがわからず、わからないから世界のことが嫌いだった。
嫌いでも生きなければいけない。そう思ったのは最近のことで、それまでは死にたい、死にたいとばかり思っていた。こう書くとありふれた世間のごく個人的な悩みのように聞こえるけれど、実際そうで、僕の悩みなんて通過する人がほとんどだ。いつまでもその過程に執着し続けた僕は、結局何も得られることはなく、行為に意味がないと悟るまで続けた。けれど感謝するわけでもなかったから、エヴァはいつまでも僕の中でエヴァだったし、カヲルくんはカヲルくんだった。カヲルくんは、いつまでもそこに居た。
僕は君に会うために生まれてきたんだね
感謝せずとも、人には感謝は伝わるし、それって僕個人のジュブナイルだとか、深淵だとかそういったものに頼らなくても、手に取ってわかるもの。ゆくゆくは天使の世界に僕は還るのだと思うけれど、思ったとしても僕は生まれてきたからにはやるべきことがあり、それは私なんかが疲弊して、蒙昧に浸るべき事柄でないことはわかりきった話で、だとすれば愛は、愛はどこにあるのか。カヲルくんの語ったことは、全てを知り尽くした人間の最後の愛のように思えて仕方ないけれど、だとすればカヲルくんは人間のことをどうとも思っておらず、思っていないからこそ、シンジに残酷な天使のテーゼを送る。
そんな風にエヴァを、再解釈することも特に意味をなさず、僕は僕の中のカヲルくんは、あの時ブラウン管のテレビのまだアナログ映像だったころのきっと深夜二時に、映像に映った血のような赤色が、赤色が、忘れられないのだ。それに執着し続けた僕は、あの赤色に囚われ続けている。書いても、書いても、書いても、あの赤は再現できない。あの赤色は、僕にとってのなんだったのか、知りたかった。知ろうとすることを、もうしなくなってから随分だって、自分は天使だったんだと気付いた。
元居た場所に帰るだけで、生きることとはその過程に過ぎない。そんな風に悟った僕は、じゃあせめて楽しんでから帰ろうかな、と旅行感覚で生きられるようになったのだけど、ここまでの道中、あの赤色からの始まりの軌跡は、別に僕に限らず、みんなどこかにそういう憧憬を抱えて生きているのだと思うけど、僕には一生忘れることができない。
あの赤色に救われた。だけど僕は、まだ生きなければいけなくて、大して意味のない文章に、自分勝手な独りよがりさに、いつまでも執着し続けている。何の意味もないことで、なにかが変わることを期待している。それが、今の僕にできる唯一の行為なのだとしたら、僕はとても儚い生き物でしかない。