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給料が金のために燃える火は美しい

人生の辞め時がわからない。終着点?閉店……真っ赤なサンタクロースの衣装みたいに、わざわざ『品薄』とかでかく書いてあるその文字を冷静に眺める私と、印象だけで捉える私の二人が混在しているのがわかる。別に必要ないもののはずなのに、どこかで買わなきゃ、という意識がほんの断片だけでもちらつくと、私はその時点で買っている。買っているというか、買う未来を手にしている。記憶の奥深くに、購買意欲なる深層心理めいたものが、ぎゅっと入り込んで、私を細胞から変化させる。

 

買わされている、と思った瞬間にはもう商品は家の中にあり、私はそれをしげしげと眺め、「どうして買っちゃったんだろう」と呟く。呟いて、何秒かの静かな後悔のさざなみを感じ取った後、その海は一瞬で干上がり、「まあいっか」と呟く。ここまでのルーティーンがワンセットで、それを人生の中で何度も、何度も繰り返す。今要らないのに、今絶対、これ要らないのに。

 

要らないものでも欲しくなるのはどうしてなんだろう。というよりも、要るものは大して欲しくならない。だって要るから。欲しくならなくてもそのうち買うから。生活必需品なるものは、生活をそりゃ根底から支えてくれているのだと思うけど、私はそういうものたちに日頃感謝をしない。むしろそうではない、なんの役にも立たないぬいぐるみとか、ブックスタンドとか、ZINEとか、きらきらした小物とか、そういうものばかりを宝物として我が家の一軍に置いている。置いて、眺めて、にんやりして、それで得られるものってただの癒しなことが時々ばからしくなる。

 

癒しを求めて買い物をするかというとそうではない。癒されるかどうかが不明瞭でも、買うスイッチが入れば買う。ソーシャルゲームで赤いマークがあれば押すように、虹色のクリスタルは高級なものだ、と脳が認識している。その報酬系をがっつりと掴まれた私は欲しいものは出来る限り買うようにしている。というよりも、これは人生の本当に不思議なところで、買えないレべルのものは、そもそもで欲しくならないように出来ている。原神の完凸とか、絶対に無理なものはそもそもでしないけれど、でも二凸で倍強くなります!と言われたら少し無理をしてでもしてしまう。

 

インスタグラムをなんとなくで眺めていると、きらきらした世界が視覚情報として目に飛び込んできて、ほとんどはノイズとして処理されるけれど、でもその中で、「君これ欲しいでしょ?」と耳元で低い声のたれ目瞼のアンニュイなガタイのいい男に囁かれたみたいに、突然目の前に欲しいものが現れる。それは私が欲しがっているものなんじゃなくて、私が予め欲しがるように全てが設計された、完璧な商品なのだ。一部の隙もなく、私の欲しい要素で構成されている。他の誰も選ばなさそうな奇抜さ、ダークトーンで彩度の高い感じ、毒々しい感じ、刺激的なデザイン性。そういうものがちりばめられて、全身でそれを『欲しい』と思い込む。いや、思い込むというのは私の主体的な意思ではなくて、欲しさを司る脳の領域に、特定のプログラムが書き加えられるみたいなもの。それを加えられると私は、エメラルドゴキブリバチに標的にされた可哀想な生き物みたいに、もうその養分になることだけが幸せだと錯覚してしまう。

 

欲しい、そう思った瞬間にはもう手に入れている。失うのはお金だけ。私が人生の大事な時間を費やして得た、僅かなお金が欲しいものたちに消えていく。

 

昔から貯蓄ができなかった。あると、なんか使っちゃわなきゃとか思ってしまうし、もったいない気もして、どうせいつか使うのであれば、今使っても変わらないだろうと安易に思ってしまい、私はあっさりと貯金ゼロの状態に身を置く。貯金がないと、そもそもで買うことができないから安心なのだ。間違っても変なものを買うことはしないし、逆に必要なものが買えなくなるというデメリットはあるけれど……でも、必要なものって自分の『未来』とか、『将来設計』とかでしょ?そんなことよりも今だもん。今しか要らないの。今が大好きで、

 

今を生きる、なんてキャッチコピーがもてはやされたのっていつ頃だっけ。ユーチューバーという職業が世の中で活躍しだしたころに囁かれた、『好きなことで、生きていく』あれはなんだか途轍もない甘美な響きのようにも思えて、でも安易に飛びついたら死ぬなとわかる、殺人的な快楽のようだった。

 

世の中で好きなことで生きていけている人はとても少ないと聞く。どうしてかは私も専門家じゃないので詳しくはわからないけれど、好きの搾取、という言葉が世の中にはあるらしい。みんながなりたがる職業は相対的に給料が低く、そうではない、誰も好き好んでやりたがらない職業は比較的給与水準が高く設定されているという話。

 

わかる話で、例えば高所作業員とか、明らかに人体に危険のある職業はハイリスクハイリターンというのはわかるし、アニメーターが薄給激務なことも、世の中の通説として飛び交っている。けれど、中には好きなことをやっていそうなのに、とびきりお金を稼いでいるように見える人たちも居て、そういう人たちってどういうルートでそこに辿り着いたのか、あまりわからないでいる。大体そういうのって『秘訣』とか売り文句をつけて本として売られているけれど、私はそういうものを買っていい経験を得たことが無いし、そもそもで買ったこともないからいいものなのかどうかもよくわからない。

 

なんとなくの心理として、向こうからやってくるものというのは危ない匂いがするものだという認識がある。例えば郵便ポストに定期的に入れ込まれる水道工事のマグネットシールなんかはまさにそうで、マグネットシールを量産し、それを投函するという人件費を投じても尚、利益が出るからこそそういう風にしているわけで、そんなの高いお金を払わされるに決まっているし、実際に押し売りに関しては敏感に拒絶反応を示す人って多いと思う。

 

私はよく本を買うけれど、本もそうで、本の方から『良い本ですよ!』と言ってきているような本はまず買わない。買うにしても、かなり時期が過ぎてから思い出したら買うようにしている。というよりはロマンチックなことが好きなので、出会ったら買うようにしている。本に限らず、出会ったと思ったら、それが買える値段だったら、極力買うようにしている。だってその機会を逃したら、もうそれには出会えないかもしれないのだ。

 

そう思うと、強迫的にものを買ってしまうので私はお金がない時は街を出歩かない。だって欲しくなったら困るのだ、今この金を失ったら、来月の支払いがパンクする。そんなぎりぎりの生活感覚で過ごしてきて、今更余裕を持って何かするとか、それこそPDCA回すとか、リスクヘッジとか、リスク分散とか、そういう耳に痛い言葉はそのまま抜けていく。私には今を生きるということを肯定してくれるたくさんの無駄なものと、甘やかしてくれる友達が居れば、それでいいのだ。良いと思い込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その年の私はソーシャルゲームに四十万以上を課金していた。年収の十分の一くらいで、世の中にはもっとすさまじい廃課金の人がいるからこんなの不幸話でもなんでもないのかもしれないけれど、でも貯金がゼロで、かつ来月再来月までのクレカの支払いも充分な額が既に控えている中で、私はまた新しいソーシャルゲームに手を出した。勇者たちが五人で戦う、自動戦闘のオートゲーム。

 

ソシャゲはスタートダッシュが肝心で、運営側もそれをわかっているから最初に金を出した人が、恒久的に有利になるような要素をいくつも用意してある。例えばVIP制度と言って、一定の課金額に応じて経験値にボーナス%が付いたり、日々のスタミナが増えたり、回数制限付きのイベントの上限が増えたりする。やらない人には全然ぴんと来ないと思うけれど、これらのイベントは超重要で、なぜならソーシャルゲームとは基本的に長く続けてもらうことで利益が出るようなゲーム設計になっているからだ。そのため最初にこれらのシステムを解放しておくことで、のちのちの利益はちりつもになり、無課金、微課金とは比べ物にならない差となる。

 

私はリリース日を心待ちにしていたそのゲームを始めた。彩度の高い髪色をしたキャラクターたちが目に飛び込んでくる。それらをスルーして、チュートリアルを進めて、お目当てのコーナーに辿り着く。

 

宝箱が目の前に置いてあり、私はそれをタップする。中からは緑や、紫の枠で囲われたアイテムが飛び出してきて、私はそれに目もくれずにショップへと移動する。

 

『初心者応援パック』と名付けられた割安のパックを、迷わず買う。それから『初回二倍特典』と書かれたクリスタルも、容赦なく買う。あとは比較的安くて、キャラが手に入る系の課金パックもいくつかかって、ぴこんぴこんと私のスマートフォンは軽快な音を鳴らしながら踊り出す。

 

もう一度宝箱の前に戻ってくる。右上には膨れ上がったクリスタルや、ゴールドの数が表示されていて、私は意気揚々と、その宝箱をタップする。

 

導火線に、火が付いた。当たりはずれが明確に区別された確率が小数点以下のお目当てを当てるべく、投資したクリスタルを一気に燃やす。一度に二千、三千と消費するから数万あってもあっという間になくなる。押しても、押しても出ない。その度に右上のスキップボタンを押して、時間短縮をする。加速的に開かれ続ける宝箱の演出は、それ自体が脳の報酬系を直接刺激するようにワンダフルなものとなっており、私はそれを瞳孔の開いた目で凝視し、冷静な脳で処理する。ただし、心は熱い。熱くて、今にも火傷しそうなほどに緊張が襲ってきて、今私は命を削っているのだというスリルを味わう。押して、押して、お目当てが出ない。けれどあと数回で底を尽きると言う時に、宝箱の演出が虹色に変わった。

 

『SSRゲット!』

 

私はようやく出会えたそのキャラをしばらく見つめて、それからそのキャラを育成するべく用意した大量の資材でキャラを強くする。赤いマークはなにか未完了のものがあるということを示すマークだ。それをひたすらに潰し、その度に増える数値に高揚し、脳はもう制御の利かない身体のことを諦めた様子で私を好きにしろと放置した。私は一晩中、そのゲームに向き合った。増えた数値で、序盤の雑魚を蹴散らした。課金の力はすさまじく、無課金だと百分の一も出せない数値が、簡単に出せる。しかもまだ、完成形ではないのだ。ここからこのキャラの上限を解放するための凸システム、専用武器ガチャ、コスチュームなど数えきれないくらいに用意された育成要素をこなしていき、完璧なキャラクターに仕上げるのだ。私はその完璧を手に入れるまで、課金を繰り返しては、ガチャを回した。ゲームのストーリーなんて、全部スキップしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

来月のクレカの明細は見られなかった。見たら、なんか絶望すると思ったから。クレカの支払い額は恐らくだけれど、私の貯蓄額を大きく超えている。つまり、赤字になっているということなのだけど、私はそれを当時付き合っていた人に正直に話した。

 

「やばいね」

 

その人はそう言うだけだった。当たり前だ、恋人に金の無心をするわけには行かない。そんなことをしたら、せっかくのロマンチックな恋が台無しになる。ロマンチックで居るためには、お金に困っているということすらも美学に昇華させないといけない、そんな必然性があるので、私は「そうだよね」と言い、それから「お母さんかなあ」と呟いた。私はお金がマイナスになった時に、必ず親を頼る。もう三十過ぎた立派な成人男性のくせして、親に金の無心をするのだ。しかし、当時は本当にやばかった。

 

「いきなり九万も無理よ」

 

なにに使ったの、と親に聞かれた。私は正直に、ソーシャルゲームに課金してしまったこと、それを後悔していることを告げた。お母さんは、「そう。もう止めてね」といい、私に十万を振り込んでくれた。お母さんは決してお金持ちではなく、むしろかなり貧乏で、昼と夜に仕事を掛け持ちしながら生活費を稼いでいるような人なのだ。

 

「ごめん」

 

私はその時は深くそう謝ったが、実際には心の中で反省していない自分に気付いていた。人は反省することができないという本来的な哲学を理由に、自らのだらしなさを肯定することに必死で、でもその必死さは、お母さんの前では無力だった。私はいつまでたっても自立できない、お母さんにお金を頼ることばかりをする、だらしのない男だった。しかもそれを、インターネットや周りの人にはきれいに見せていた。

 

死ねばいいのに、と思った。こんなゲームも、ゲームをやる私も。私はそのゲームをアンインストールした。既に六万以上を課金したゲームを、一週間でプレイしなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

給料は金のために燃える。その火は、案外解放感があって、過去のことを忘れさせ、今だけに意識を集中させられる質のいい音楽みたいなもので、でも音楽と違うのは、その開放感を得た後には必ず、多額の支払いが待っていると言うこと。着手したものが、例えものだろうと、データであろうと、支払うという意思表示をして商品を得たからには払わなければならない。それがどんなに浅はかなものでも、要らないものでも。

 

わかっていても、止められない。私には自分の行動を制御するためのプログラムが存在しない。いや、正確には元々はあったが、私が書き込んだ未知のバグで、それらを機能停止にした。それは結局我慢をしたら、辛いのは自分だけだという、もっともらしい理由に基づいたものなのだけれど、私が我慢をしなければ周りが迷惑をする。迷惑をされた側は、私に付き合いを続けるだけの価値があるかを判断する。そうして、まだ寛容できると分かった時点で、私はその人に助けられる。

 

もしも私がそれだけの価値がなかったら?そうなればとっくに借金まみれになり追い詰められていただろう。親にも愛想をつかされ、彼氏も居なくて、友達にも見放されたら。私はそうなることが怖くて、怖くて、孤独死したくないから、懸命に正直に生きようとしている。正直な心で伝える悪事を、人は美しいと思う生き物だから。

 

それを、わかっていてやっているということが私には怖くて、わかっていても、普通はしないのだ。家賃を毎月滞納していた時期に知り合いに言われた。

 

「家賃払えないって一番ヤバい状況だからね」

 

私はそうなんだ、と他人事のようにそれを聞いていた。どうかしていると今でも思うのだけど、そういう世間を普通に生きる常識みたいなものが、私には欠落していて、それが大人になった今でも続いていて、それを私は、最悪な花火だと思うのだ。

 

瞬間、火がついて、じりじりとその命を燃やし尽くす線香花火に、自分自身を重ねて、その火をきれいだとか思った。ロマンチックさの影で消えていく大勢の現実たち。卒業を発表した地下アイドルのその後を誰も知らないように、私は、私というロマンチックさをインターネットで晒したりしつつも、実際の私はこんなもので、親に金をせびり、その度に可哀想な自分を演出することだけが上手くなっていく、本当に卑怯なやつなのだ。それを人間の魅力だとかほざいても、そんなの、芸術作品の中でしか存在理由を許されないだろう。

 

だから、私は生きる芸術みたいなもので、私の思考や行動は全て、魅力的な舞台を演出するためにあるのだと、だから破滅すらも美しいのだと、そんな風に解釈しても、私は今も貯金がなくて、そのせいで会社を辞められなくて、しんどい気持ちを文章に落とし込んで、なんとか生きることにしている。けれどそれって、別にもっと不幸な人とか世の中に大勢いるし、あなたは充分恵まれているんじゃない?と言われても「死ね」と返す。返せる程度には、私は元気で、それがなんだか儚いって思うのだ。

 

人が命を燃やすとき、その背中には羽が生えている。札束でできた、大勢の人の顔が掛かれた羽が、ぱらぱらとあちこちに飛び散っていき、その人は天を目指す。焼けて、金でできた羽は燃えて、その人は地面に墜落する。

 

人間の欲望は、イカロスの蝋でできた羽ほどに美しいものではなかったとしても、それでも太陽を目指すなどということは、人間に許されたことではないのだと、それを実感しつつも、私は今日も金でできた身体でボタンを押す。人生に付いた赤いマークを懸命に押して、気持ちのいいなにかを探っている。