画面を見つめ、スクロールをする。指は、辿々しい一切の旋律を、奏でて、愛でて、時には慈しむ行為を僕という自分自身にしていた。自傷行為寸前の爪の跡、燃ゆる火蓋に切って落とされた瞼は、アンニュイな僕の調べを、いっそう無意味なものとしていた。無意味さは、時にはもう一度繰り返したくなる過ちを、一過性のものとはしない。できるのは、ただ感情に絆された着ぐるみの乾いた表面の毛羽付きだけ。
夢に見ていた、憧れの世界の堂々たるランキング形式での序列は、僕を虜にした。このランキングに乗れば、世界に認められた気さえしていて、けれど今思えばそんな数値になど意味はなくて、僕はいつも通りに画面を見つめ、爪を齧り、血が滲んだ指先の皮膚を噛み千切りながら、ただモニターの向こう側にある別世界に没入していた。朝日が昇る寸前まで起き、それから母親に起こされるまでの短い時間だけ眠り、現実世界としての学校の授業は全て寝て、それでも僕はその時、麻酔のような心地よさが全身を覆っていたのを覚えている。僕は現実で認められなくても、インターネットに居場所があるんだ。
pixivというソーシャルコミュニケーションサービスを始めたのは、中学三年生から。僕は昔から絵が得意で、描けば大体の人が褒めてくれたけれど、当時はその意味がわからず、下手な絵でもみんな褒めるからその違いを、言葉に含まれた裏の意図をあまり理解しないままに成長した。思春期を迎え、僕は現実世界に居場所がないことをうっすらと自覚し始めた。どうしてかはよくわからないけれど、このまま田舎に居ても、たぶんだめなのだという薄ら寒い感覚と、東京に行きたいという甘美な憧憬が、僕の頭の中である一つの答えに辿り着く。
インターネットを、毎日のように観ていた。何度見たって飽きなかった。そこには現実で満たされない全てがあり、かつ現実めいたしがらみとか、教えとか、そういうものは一切ない自由の世界そのもので、電子掲示板に書き込まれたおよそ現実では見たこともないような罵詈雑言、他人同士の喧嘩、ヒエラルキーが大好きなくせにそんなことありませんよとリベラルぶる知識人、そういった連中が右往左往、蹂躙、横行闊歩している楽園で、僕は意気揚々と自分のアバターを作った。当時はひらがなで短めの名前がウケていたから、それに倣ってそうした。自分のアイコンを手描きし、アカウントのvioにこだわる。言い過ぎないように、書き過ぎないように。投稿する絵のキャプションはかなりの脱力感を込めたし、そうすることでどうしてか『本物』っぽく見える自分のぱりっとしたそこはかとない都会感に、酔い痴れて、僕は水面を覗き込むナルキッソスの如く、自らが作り出した虚栄に、全てのエネルギーを費やしていた。居場所がなかった僕に、仮面をくれた。それが虚構だったとしても、他に居場所がなかったのだから僕はその仮面を甘んじて受け入れた。
仮面をかぶった僕は、少しだけ病んだ感じの若き才能あふれる絵描きだった。ジャンルは、まあ今でも世間にスルーされているようなちょっと変わったジャンルだったから、僕は結局裸の王様でしかなかったのだけど、それでも僕の作った仮面を気に入ってくれる人は多く、僕は沢山のフォロワーを抱えたし、リアルで会った時も、界隈の全員が僕を知っていた。気持ちよかった、ここでなら息を吸える、ここでならわかり合えるって、当時は本気でそう思っていた。
僕には中学時代からのネット友達が居た。あだ名はいちろーくんで、いちろーくんはとてもシャイで、少しだけ絵が上手いけれど、僕には及ばず、ただ彼本人も絵にそこまでの強い気持ちを込めているわけではないようで、僕らは寂しさを紛らわすためだけに一時的につながり、当時流行っていたメッセンジャーというアプリを使って、何度も夜中にチャットをした。高校生になり、いちろーくんと携帯でも繋がった僕は、彼の醸すなんだか『リア充』な雰囲気に魅了されたのを覚えている。
いちろーくんには彼氏が居た。当時まだ中学生だったから、そんな年齢で大人の人と付き合うのって、いいんだとも思ったけれど、いちろーくんの中ではいいみたいだった。彼氏の写真を見せてくれて、僕はいちろーくんの素顔を初めて知った。結構かわいかった。けれど彼氏さんは、すごくしょっぱい顔をした普通の大人の人だった。
僕は少しだけそれにもったいなさを感じたけれど、いちろーくんは幸せそうだったし、あまり細かいことを考えない性格のようだったから、僕はそれでもいちろーくんの幸せを純粋に願っていた。絵描きとしての僕は、どんどん有名になっていった。
僕のアカウントが映えれば映えるほど、いちろーくんとの距離は遠くなった。いちろーくんはとてもじゃないけれど、絵描きとしてなにかやっていけるほどの技量がある人ではなく、当時僕の居た界隈というのはいわゆる絵描きのコミュニティであり、上手い絵を描くやつが至上、それ以外は認めないといった暗澹たるムードが全体に漂っていた。いちろーくんが魅力的に思えたのは、そんな界隈の空気を一切受けていないようだったから。いちろーくんはのほほんとしていて、溌剌で、ちょっとだけ抜けていて、でもしっかりものだったから、僕は彼が僕に対してメッセージをくれる度に嬉しかったし、というか僕はそもそもで何にも自信がなかったから、そんな他人を気遣うことのできるいちろーくんがかっこよく見えた。でも彼氏いるし、そもそも彼、沖縄だし。絶対に会うことのできない距離だからこそ、僕らは友達で居られたのだし、そこに一切の過ちが起きようがないことも、うっすらとわかって、僕はいちろーくんに初めて自分の顔を見せた時、初めて勃起した性器を他人に見せた時よりも緊張した。
「かっこいいじゃん」
メガネのハラダで買った二つで五千円の赤縁メガネに、視力の悪さを感じさせる目の小さくなりように、痩せた身体にお世辞にもおしゃれとは言えない部屋着で、実家の洗面所の前で撮影したその写真を、いちろーくんは褒めてくれた。なんて返したかはわからないけれど、僕はその好意を素直に受け取らなかった。いちろーくんが僕のことを褒めるのは、全部お世辞だと考えていた。
僕のアカウントはその頃、界隈の中でもかなり目立つポジションに居るようになった。今でいうと、なんていうんだろうな。例えばボーカロイド界隈で、当時ryoさんとかハチさんとかwowakaPやピノキオPが有名だったけれど、僕はその中で、deco27くらいのポジションに居た。意外かもしれないけれど、その頃のボーカロイド界隈でのdeco27さんの地位は低く、ニッチで、好きな人は好きだよねって感じのポジションに居たのだ。けれど僕は『愛言葉』とか好きだったし、deco27さんが『モザイクロール』で大ヒットした時は自分のことのように嬉しかった。彼の曲を聴いていると、なんだか病んだ自分が肯定される気がして、その後じん(自然の敵P)とかれるりりとか色々出てきたみたいだったけれど、やっぱり僕の青春はそこにあった。かつてのボカロ界隈、ボーカロイドの黎明期、一番純粋で、一番熱量があった時代。
僕はニコニコ動画に入り浸るような典型的な陰キャ(当時まだこの言葉はなかった)だったから、いちろーくんのその対象的な現実の明るさは、僕の肌を焼いたし、焼いた肌がモテるっていう謎のジンクスもあったから、僕は少しでも夏に日焼けすると、自分が男らしくなった感じがしてそれを誰かに見てもらいたかったけれど僕の腕は、自慢ではないけれど折れそうなくらいに細かったし、こんな細い腕とこけた頬の人間を好いてくれる人なんて誰も居ないと思っていた。だから、仮想のアバターに自分を宿して、そこで好き勝手に振舞うのが本当に楽しかった。
いちろーくんはいつの間にか、最初の彼氏とは別れていた。けれど僕がそのことを知ったのは随分後になってからで、僕はその時、いちろーくんには僕以外の友達が沢山いて、僕はその中の一人でしかないのだと、そんな普通に生きていれば当たり前に得られる感情も、当時の僕にはなかったし、欠落もなにも、なかったのだし、最初からあるのであれば『失う』とかで悲しんだりできるけど、最初からだし、自分なんてどうせ何の役にも立たないごみ屑だからと、ネットゲームに埋没したりもして、その後に知り合えた何人かの大人の界隈の仲間に、なんだか仲間に入れてもらえそうな雰囲気はちょっとだけ感じたけれど、でも僕の田舎でのコンプレックスは凄まじく、本当に凄まじかったので、僕はやんちゃどころか、ぎこちないただの人形みたいにしか振舞えなかった。だからそれをみんなは「かわいい」とか言って慰めてくれたけど、本当の僕なんてどこにもいなかった。僕は仮初の存在、実在しない、本当の僕は痩せた非モテのきしょいド底辺なだけ。当時は本当にこんな考え方で生きていたから、僕の口は曲がったし、姿勢も悪かったし、内蔵もその若さで結構やられていた。だけど他に居場所がなかった。居場所が欲しかった、自分をさらけ出せる、そしてそれが幸せな僕だけの居場所が。
いちろーくんとほとんど交流しなくなってから、僕は何度かインターネットで過ちを犯した。まあ、過ちと言っても当時中学だか高校生だかが仕出かすようなことで騒ぐような界隈ってそれこそ程度が知れていて、カスみたいな人間しかいない底辺の吹き溜まりがそこだったから、僕もそれをわかって居つつも自分の中での折り合いをつけていたってだけなんだけれど、それでもそんな風に自分を言い聞かせても、僕はその界隈の持つ空気がやっぱりちょっと好きだったし、可哀想なんだけど、かわいい動物とかもいっぱいいたし、仮面をもっと被りたかった。着ぐるみの内蔵になれたなら、僕だってそれでよかった。
当時僕は美大受験を志し始めて、それでなんか意識が高くなってしまった。そういう界隈の人っていうのは意識の高さを最も嫌うから、別に僕は僕のことをやっているだけなのに、その界隈の人は暇で、他人のあら捜しをすることくらいにしか人生を注いでいないので、別に僕は誰のことも否定していないのに、勝手に否定された気分になるらしかった。僕の上げた渾身の力作が伸びると、そのタグ欄に『既視感』と誰かがタグ付けをした。僕はこれを悪意だと捉えたし、でも当時の僕は完璧主義だったから、たった一人にでも嫌われるのは嫌だった。誰に対しても天使であろうとした。それは結局、極まった人間の巣窟の中ではうざったいだけの、醜い悪魔の姿でしかなかったのに。
僕のアカウントが燃えて、僕はあっさりとpixivを辞めた。辞めたっていうか、別のアカウントに転生したのだけど、結局すぐに僕ってバレて、でも僕はジャンル自体を変えたから、動物から人間を描くようになったから、界隈の人はたぶん、しつこく僕を監視していたんだと思うけれど、僕はどうでもよかった。っていうか全部嘘だったし。獣が好きとかも、みんなが好きだから好いていた部分は大きかった。
退会した後、三十分も経たないうちにいちろーくんから連絡がきた。僕はどうして?と一瞬思って、すぐに僕が当時見ていた界隈の2ちゃんねるのスレッドを、彼も見ていたのだと察した。
「なんでだよ。絵、辞めるなよ」
たぶんこんな言葉じゃなかったと思うけれど、そんな感じのことを言われた。僕は「やめるわけじゃないよ。でも今はちょっとしんどい」みたいに、大人ぶった長女がよく言う本当は未熟さを認めて欲しいけれど未熟さを外に出すなんて恥ずかしいからできませんがあなたが認めてくれるっていうなら仕方なく認めて上げられたっていいんですからねという感じの、嫌味ったらしい”しんどい”だった。いちろーくんは僕の言葉を無視した。無視したって言うか、あたかもおれが居なければ、お前はダメになるとでもいいだけな、別に恋人関係でもないくせに、なんかそういう感じのことを言うものだから僕はいちろーくんに、猛烈に気持ちを伝えた。
「だってさ」
気持ちの蓋が外れた瞬間、ため込んできたものが全部出た。僕は感情が高ぶると言葉が細切れになるくせがあって、それが酸欠した人の呼吸のリズムそのものなものだから、メッセンジャー上で僕の言葉は過呼吸寸前に、いちろーくんに気持ちを吐露し始めた。しんどかった、辛かった、寂しかった、東京が羨ましくて、田舎は嫌で、でも僕は身体も細いし誰からも相手にされていないし心が弱いしいちろーくんにだって今こうして迷惑を掛けているし。そんな感じのことをひたすらに言い続けた。
いちろーくんはしばらく既読が続いた後に、少しだけ冷めた感じの口調で「お前ってわかりやすいよな。情緒が高ぶるとすぐこういう連投するし」って、実際はいちろーくんは『情緒』なんて言葉を知ってる子じゃなかったから、これは僕の想像の中のいちろーくんなんだけれど、いちろーくんはわかってるよみたいな空気を出して、いかにも自分はモテてきましたって感じの仕草を出して、僕を慰めた。慰められた僕は、なんだか甘ったるいと言うか、シーシャバーに長時間滞在した時みたいな変なだるさが全身を覆ってきたのがわかって、真っ暗な部屋で、モニターだけが光るその画面の向こうにある文字に、なんらかの高揚を覚えた。
蝋燭が燃え尽きる瞬間に、最後にふっと、勢いが少しだけ強くなって火が空に消えていくあの感じ。僕のインターネットはそこで終わった。僕は、蝋燭の火だったのだ。蝋の中に埋め込まれたロープが、燃え尽きればそれで終了。可燃性の物質だったのだ。心って、たぶんそんな物質的な科学で案外出来上がってるんだって、当時はそんなことを思えなくて、ただ悲しいとか、わけわかんない感情に浸って悲劇のヒロインやるしかない感じの僕だったけれど、でもきっとそうだった。
いちろーくんは最後まで優しかった。僕にも、きっと僕以外の友達に対しても。いちろーくんは誰にでも優しくて、誰からも好かれて、目立たないけれど一番の人気者で、目立とうとしていた僕は一番の不幸者で、それは僕が仮面を被っていたからだと思う。いちろーくんは、素のままで良いよねって一度だけ言ったことがある。
「おれだって、お前に全部を見せてるわけじゃないけどな」
嘘だと思った。あなたは全てがそれなのだ。全て出して、その程度なのだと思った。
大人になってから、僕はコンプレックスがある程度払拭出来て、色んな火遊びを楽しむようになった。まあもちろんそこまでの過激なことは怖くてできないけれど、出会いアプリを使って一過性の色恋を楽しむくらいのことは、僕にもできるようになった。
ある時知り合った人が、「ゲイイベントに行こう」と僕を誘った。僕はそんな危ないイベントに行くのは怖かったし、でも怖かったけれど勇気を出して行ってみたゲイバーで店子になれたりもしたから、案外大丈夫なのかもと思っていくことにした。そこは新宿二丁目の、仲通りをほどなく歩いた軒先の地下のお店。
店員さんが全員でかくて、なんか横幅とかすごくて、その割にみんな身長低くて、僕は完全に別世界だと思えるようになったこの地獄に、たまたま迷い込んでしまった。
緊張しすぎてなにを喋ったかももう忘れたけれど、一杯だけドリンクを飲んですぐ帰ることにした。あまりにも怖すぎた。だって、でかい男が密集してゲーム音楽が流れるたびに「しゅき~♡」って言ってる空間なんか嫌すぎて、絶対に馴染みたくなかった。
みんな僕のことを白い目で見ていたけれど、そんな中、一番奥の方に見慣れた顔があることに気付いた。
僕はその予感が、嫌な予感だと直感でわかって、それで向こうも、僕の視線に気付いて僕の方を見た。目が合った。いちろーくんに似ていた。でも、いちろーくんではなかったのかもしれない。僕はでも、いちろーくんだったら本当に嫌だったし、大人になった僕の姿を見られたくなかった。いつまでも記憶の中の悲劇のヒロインでありたかった僕にとって、そのあまりに突然の再会は、特になんのドラマもなく終わった。あれはいちろーくんだったんだろうか。だとしたら向こうも、私の存在に気付いたのだろうか。そんなことをぼんやりと思いながら、今これを書いている。