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麻酔による幸福と覚醒による悲劇について

僕はあの人が嫌いだった。嫌いで、心底に憎くて、でもそれは僕自身の弱さと言うか、情けなさというか、不甲斐なさみたいなものが折り重なって、ブレンドして、たまたま目の前のあの人にぶつかったというただそれだけの個人的な感情に過ぎないのかもしれないし、でも僕にはあの時の感情が、あの人と相まみえたときの行き場のない劣等感が、どうしても拭い去れなくて、何度も何度も、何度も何度もあの人を超えようとしていた。けれどあの人は、なんというか他の全てを捨てている人だったから、それ以外のなにもいらないって、本当は要る癖にそう思い込んでいる壁作りの天才だったから、だから僕は、僕を均等にならすために必要な人生において早期で学習するべきことを淡々とこなしていた。あの人は、僕が僕のことをしている間に、ずっとファンを増やし続けていた。その光景は広く輝く荒野の荒れ狂う吹き荒ぶ寒風の、つむじ風が目に見えるが如く、びゅうびゅうと僕の心を凍えさせた。けれどあの人は、きっと僕は視界に入っていたんだろうけれど、他の全てにそうしたように、僕は居ないことにされていた。居なくて、でも目の前に現れるものだから適当に、なんかいい感じのことを言って誤魔化していたのだと思う。でも、僕にはそれは耐えがたく卑怯に思えた。

 

あの人は何度も作品で賞を受賞していたし、当時インターネットで爆発的な人気を背負っていた動画サイトのランキングの一位を取ったりもしていた。全てが数に見えていたのだろうけれど、僕は数に固執することができなかった人間だから、あの人のその行為は、きっとつまらないものだと思い込もうとしていた。だけど、数は質を凌駕するという言葉もあるように、数をひたすらにこなしていく内に、そこになんらかの真理めいたものが宿ることは僕も高校時代に気が付いていたし、けれど、あの時の僕はなによりも寂しかったから、そんな風に周りの人間全員を敵に見て、憎しみそのままはウケないからってなんか青春の下克上的な物語に仕立て上げて、っていうか物語未満の、音楽の力に頼ってそこにテンポよくきれいな絵をちりばめたあの人の作風を、僕は心底軽蔑したし、それはクリエイティブを始めた人が最初に手に取るもので間違いがなかったから、最初に手に取ったものを疑わずにやることは、ある意味幸せ者のすることなのだろうけれど、そんな経済や周囲の環境に恵まれていたからこそできるあの人の嘘の孤独感は、僕を燃やし、でもあの時の僕には、それらの気持ちをどう発散していいのかわからなかった。あの人はどんどん仲間を増やし、僕はどんどん孤立していった。

 

音楽への嫉妬がずっとあって、絵で人気者だったときも、自分の才能が音楽にあったら、などと空想をよくした。というのも、僕はミュージックビデオがもの凄く好きで、今はさして普通のコンテンツの一つになったのだけど、当時の僕は本当に、スペースシャワーTVだけが文化の発信地だったし、あの時にテレビで偶然流れる大好きなアーティストと再び遭遇できないかって、何度も何度もチャンネルを切り替えて、その度に僕はなんて無力なんだろうと思った。こんな風に誰かから文化を与えられるのを待つしか、お金も場所もなかった僕にはそれくらいのことしかできなかったし、それくらいのことができるなら、きっと他のことだって出来ると思った。だから絵を描いて、居場所を手に入れたんだけれど……でも、絵では満足できなかった。絵という平面そのままのものは、そこに躍動感を込めることはできても、人の時間そのものを深くは奪うことができない。やっぱり時間芸術なのだ。漫画や、アニメや、ミュージックビデオなんかは全て一連の時間軸があり、見始めたら最後までその映像に憑りつかれるように、何分も、何十分も彼らの世界に連れて行かれる。そんな人間をとことん支配できるコンテンツを、自分も作れたらと何度も夢想した。

 

漫画はよく描いていた。けれど僕は話がうまく考えられず、支離滅裂になったり、読者をあっという間に追い越すような超展開続きの素人の出来上がりにしかならず、続かなかった。アニメーションは大学時代に何作かと、卒業してからアニメーション制作会社に入社していた時期があるから、そこでもある程度、本当に基礎の基礎くらいのことだけはできるようになったけれど、でも僕はそれも満足しなかった。”使われている感じ”が嫌だったのだ。誰かの、なにかの巨大な資本を生み出す装置の、ほんの添え物として自分の能力が使われていることが嫌で、でも僕にはほかに特技なんてなかったから、僕が主軸となるようなコンテンツを作れもしないくせに、態度だけ偉そうにしていた。アニメの先輩に言われたことがある。

 

「さかがみ君はわがままだよ」

 

僕はそれを聞いて、何度も他人から言われてきた『残念』という言葉や、『惜しい』とか、『孤高』とか、そんなくだらない感想に自分がいちいち傷ついてきたことを思い出し、ああまたか、と思った。また僕は、ここでも居場所を作れないんだな。僕はどこに行ってもなにをしても、人から必要とされていないんだな、と自分を呪うようになった。

 

あの人は僕がアニメーション会社を辞めて、社会の底辺で鬱屈としている時も、きっと仲間と夢中に、部活みたいな時間を過ごしていたに違いない。僕がニートで働けない時に、嫌だったけれど何度かだけSNSを見たことがある。その時にちらりと、あの人たちが仲間を作って、映像制作チームを立ち上げたというニュースを耳に挟んだ。その時は、平気なふりをした。だけど僕の心の中でその情報は、じわじわと身体の内側から僕を食い尽くし、内蔵が全部毒蛇色になるくらいまで変色し、液状化させ、僕は魂から腐らされていった。なにもしたくなくて、本当に何もしなかったから僕はあの時、たぶん死ぬべきだったんだと思った。自殺する人が進む黄金ルートを、僕も歩もうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの人とは何度か作品制作を一緒にしたことがある。それはもちろん、あの人が作品制作一筋だという催眠を自分に思い切り掛けていたことにより、僕の人格や癖よりも、僕の絵の能力に先に目を付けて、声を掛けたからに他ならないのだけど、僕は内心、高揚していた。なにかいいものが作れるのかもしれないと、その時は一瞬だけそう考えた。

 

僕や同級生と、あの人を交えてミーティングをした。映像監督はあの人で、僕らはそれの作画チームに抜擢される、みたいなシチュエーションの談義だった。あの人は僕らに、自分の好きなボーカロイドのミュージックビデオを見せてくれた。退廃した廃墟の上で孤独に佇む初音ミクの姿。

 

「いいよね。こういうの作りたいんだよ」

 

あの人が見せてくれたその映像は、既に僕も見たことがあった。それで、本当はそこで嬉しく思って、話がはずめばよかったはずなのに、そうすればあの人となにか仕事が出来たのかもしれないとか、全く思わないけれどそう思うこともなんか無理やりできるくらいにはドラマティックな出来事なんだけれど、でもその時の僕は、とことん僕に正直だった。

 

「え、なんかすぐ作れそうですけど」

 

一瞬、あの人の表情が曇ったのがわかった。けれど僕は当然のことを言ったまでで、実際にあの人が見せてくれた映像は、別に普通に絵が描ける、それを動かせる人ならすぐに再現できる程度の、どこにでもあるきれいなアニメ映像だったからだ。その発言を受けてあの人は、なにか取り繕う発言を何度かしていたけれど、内容は覚えていなくて、僕はなんだか不満だった。この程度のものでいいなら、自分は当の昔にやっているよ、と本気で思っていた。

 

制作の手伝いの時も、なんだか気が乗らず、適当に書いた顔のアップを二つだけ提出した。あの人はそれを褒めてくれて、「どこで止めても絵になる」と評価をした。けれどその後に、少しだけ感情を込めた装いで「でも君の仕事量が一番少なかったけどね」と付け加えた。

 

はっきりと、僕らが敵同士になった瞬間だった。あの人はそれ以来僕を制作にさそうことはせず、僕は一瞬だけ気の迷いでなんか制作一緒にできるかもと思った瞬間はあったのだけど、でも今思うと本当にそうしなくてよかったのだと思う。魂が、僕に警告したのだ。《その先輩と一緒に居るな、君はダメになる》と、そう囁いたのが直感でわかった。

 

アニメの才能は、例えばきれいな一枚絵を仕上げることにももちろん起因するのだけど、それ以上に重力操作が大事だ。ここで、このベクトルで一定時間の力がこの物体に掛かれば、ものはこう動く、ということを頭ではなく感覚で理解していないと上手い絵は描けない。僕の場合、完全に絵に体重が乗っているから、合気道の達人みたいに一歩足を踏み出した途端に、それが臨戦態勢だということを相手に分からせる。そして僕は、もう片方の足を円を描くように後ろに伸ばし、腰をかがめ、利き手を思い切り突き出して相手の腹に掌底を打つ。実際に合気道の人が掌底なんて打つのかはわからないけれど、そんな感覚で、手とか足とか頭とか腰が、全て移動方法を覚えているみたいに、一連の塊として動作する、というのが僕にとっていいアニメであり、僕はそれを無意識で再現できる。

 

けれど、僕に足りなかったのは情熱だ。僕は上手いし、描けるし、描いたら上手いのができるのなんて当たり前なんだけど、けれどそうすることに必然性を特に覚えなかった。別に絵じゃなくても良いんじゃないかと思い、アニメを志した。けれどアニメでも僕は作画担当しかやらせてもらえず、僕が感動した物語の本質に迫るようなことはできなかった。漫画も、作画にのめり込み過ぎて話が置き去りになるし、ミュージックビデオは、音楽の添え物なことに耐えられなくて、結局音楽がよくなかったら誰も見ないという音楽ありきのクリエイティブであることに弱さを感じて辞めた。だから僕は、せっかく美大に行ったのに、特にどこにも情熱を見出せるものがなかった。

 

あの人は、情熱だけはあった。正直センスはださいし、絵も下手だし、自分で描けないから協調性を持って取り組むという少年ジャンプ的なヒューマニズムに骨をうずめて、まるでそれが正しいことである風に振舞って見せて、実際に大衆が付いてくると途端に王様気取りになり、おれは正しいことをやっているぞ!どうだ、見たか!と高々に叫んでいるように思えたし、嫌いだった。とは言っても認められていないのは僕の方だったし、僕は理由が欲しかった。僕の方が絵も上手くてセンスもあってクリエイティブに向いているのに、どうして社会的に認められていくのはあの人で、あの人の周りには常に人が集まっていて、ヒーローを気取れるのか、それが心底知りたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現代は音楽が支配する魔法の世界で、音楽は受動的コンテンツの最たるもので、特に聴こうとしていなくても勝手に流れていれば聞く。他のことをしていても楽しめるという手軽さも相まって、音楽を配信するサブスクは大ヒットしているし、通勤でも、休みの日でも、世界は音楽に溢れている。若者はフェスで絆を結んでいるし、音楽の才能があることは、なんだか世界の頂点にいる人のようにも思えて、きっとあの人も、それが羨ましかったんだと思う。だから、ミュージックビデオという音楽と最も近い接点を作って、自分も音楽の一部になっていると、そう自分に暗示をかけ続けているのだと思う。

 

けれど、それは麻酔だと思う。音楽は人を幸福にしない。音楽による幸福は、一時的に社会の嫌なことや、忘れたいことを忘れさせる能力はあるけれど、それによって本来得るはずの痛みであったり、目の前の課題なんてものをかき消してしまう力がある。例えば歌詞でそれらしいテーマを歌っている人も増えてきたけれど、歌詞で言うだけではだめなのだ。結局メロディがよくなければ誰も聞かない。歌詞だけ優れていても、曲自体が平凡な旋律に乗せられていれば、それは陳腐で誰も聞かないお説教になる。だから結局、音楽の効能というのは音の繋がりにあり、それはダイレクトに、社会に生きる人に幸福という名の安寧を享受させる。

 

そうして麻酔で朦朧とした人たちが渋々、社会で働いているという現実は、別に私じゃなくても誰しもが感じることだと思うし、私はこの状況って、一見幸せそうに思えるけれど全然幸せに見えない。なぜならば、彼らは、麻酔で眠っているだけなのであり、世界ではあらゆる悲劇的なことが繰り返され、政治は腐敗し、力のある人だけが力をつけていく社会構造になっていっているというのに、犬猫のニュースだけ見てたい、なんて真理だけど、真理だけどそうすることは、なにか恐ろしい破滅を招く気がして、でも見たくない現実をわざわざ好んでみる人なんて誰も居なくて、全員が麻酔で眠ったら、天井が開いてそこから巨大な腕が、僕らの頭をメスで開いて、中の灰色の塊を取り出して食べてしまうのではないかって、そんな感覚にすら陥るのだ。

 

けれど、そんな中で一人だけ、もし一人だけ目が覚めたら。みんなが眠らされていることに途中で気が付いたら。きっとこのシステムは警告音を鳴らすだろう。警報と共に武装した連中が扉を開けて、その人のことを殺そうとするだろう。けれど、僕はその人こそが真のヒーローだと思うのだ。こんな風に、社会で良いと既にされている価値観に上手に乗れる人だけが褒められる、それが出来ない人たちはずっと燻っていてね、なんて話はあまりにも残酷で、しかも真実でもなんでもないのだ。人は、真実を知りたい生物だ。真実をみんなが知りたがらないのは、なんとなく、周りもそうしているからって言う前習えの法則でしかない。

 

覚醒によってもたらされるのは、悲劇だ。目覚めた人はすぐに、この状況が支配者側にとってとても都合がいい状況だと知る。そして、自らが動かなければ全員が殺されるのだと、はっきりとした使命感に駆られる。ベッドを掻い潜り、武装した機械たちの銃口を必死に避け、窓をたたき割って廊下に飛び出し、それで緑色の出口を探す。

 

僕が文章を書いているのは、みんなを目覚めさせるためなんじゃないか、とすら思う時がある。これはスピリチュアルが好きな人が良く言う偽物の悟りなんかではなく、ある意味では僕にしかできない、僕だけがこの真実を語ることができるんじゃないかと感じている。それがどうしてかというと、これは僕の気持ちによって書かれた文章だから。僕特有の『リリカルシンキング』によって編み出された、僕にしか書けないロマンスの文章だから。

 

それを人は嗤うだろう。あの人だって、煙たがるに違いない。「とうとう発狂したよあの狂人」とか、内心思われているのかもしれない。けれど僕には別にそれで良くて、僕は僕のやるべきことを僕の中で見つけた。これがどのくらいすごい出来事なのかを、他人が推し量れなくても別にいい。

 

僕の言葉は、僕独自の音楽的センスによって意味から離された音の繋がりでしかなく、それはある意味、現代を支配している音楽による暴力性と、ほとんど同じことをしてしまっているのだと思う。けれど、僕の言葉はまるで『覚せい剤』のように読む人に侵入し、その認識を内側から書き換える。非常にたくさんの情報を、単語や単語を繋ぐ行間に圧縮し、極めて低いデータ量で読む人のハードディスクに直接書き込む。それはウイルスのように、侵入されたことにも気が付きにくいわずかな情報なのだけれど、僕はこれをすることで、僕のように麻酔から目覚める人が増えて欲しいと思っている。

 

それは復讐じゃなくて、創造。僕らは戦争の時代を乗り切って、今創造だらけの最高な社会で生きている。それを、独り占めしようとする音楽の強い力に抗うべく、きっと僕は文章を始めたのかもしれない。かもしれないっていうか、たぶんそうなんだけど、でも僕のこと妄言は、きっと読む人に強烈な違和感を与えるだろう。「なに言ってるんだ、この人」って、きっとみんな思って読むのを辞めるだろう。けれど僕にはそれでよくて、それこそが狙いで、僕の狙ったことが成功したかどうかを知る唯一のパロメーターは『違和感』だ。僕の言葉に、疑問を持たれること。その反応があったのであれば、僕はこれ以上に嬉しいことはない。

 

あの人は今も、映像を作っている。自分だけが世界の王であるかのように、独善的なロマンスを、音楽の力を借りて発信している。それは醜い姿勢だけれども、僕はもうあの人のことを見ない。ここで書けたならば、それは僕の手を離れたことになるし、僕はあの人の影響下から既に脱した。ここは太陽系の遥か外側。ボイジャー一号の居る地点で、僕はそこで、豆粒以下の大きさになった地球から放たれる、ある種の熱気を感じ取る。それは僕や、あの人もそうしているであろう、『ここに居る』という強烈な発信源だ。誰か、気付いてって。彼らは必至にSOSを出している。出して、なんか社会でうまく行ったらそれが成功であるかのように錯覚して、麻痺しきった脳みそで懸命に札束を数えている。僕はそれを、懐かしい地球の景色だと思って今も憐れんでいるのだ。