園子音が好きだった。炸裂する感情表現に自我の唐突さ、燃える火を見ているかのような情熱に、魂の連鎖反応、全てが二十歳そこそこの僕を刺激し、困惑させ、号泣させ、論理ではなくハートフルで生きていいのだと、世の中にこんなに正直な人が居ていいのかとティッシュ一箱使った。使って、この『演出』に騙されたくないと思った。僕は消費者側で居たくない、絶対に、支配する人達の中で輝いてやりたいと思った。
十年後を思案する。人は十年でほとんど別人に成れる。まあ、平凡な会社員務めをしているなら十年はおろか四十年先だってなんとなく見えちゃってるような、想像のできる満足感の中で生きちゃえるくらいのありふれた《くだらない》毎日だってきれいとかほざいて、射精と受精だけできればあとは余生、みたいな若気の悟りって言ってもそいつらは大体四十とかもういい年齢で、出産適齢期とかを必死に考えて人生設計を語尾にハートを付けながら懸命に考えているのであって、そういう命を否定しちゃいけないとはもちろん僕もそう思うんだけど、あたしはそうは思わなくて、だって世の中には子供を作りたくても作れない人がいる。その上で子供を人生の柱に据えるのはそれこそが暴力的で、自分が作れるから、で弱者に対してその力を何のためらいもなく振るうってことがやっぱり犯罪的に思えて、僕はそういう話をしているんじゃないと思ったけれど、一理あって、きっと子供が好きな人というのは人を殺すことも好きだ。生み出すのが好きなら破壊も好きだから。これを僕の感想とか、価値観とか、そういうせまっ苦しいもので推し量られるのが僕にとっての地獄で、でも社会なるものはそういうことを平気で寛容するよね。「子育ての時短ならいいけど、君は勝手な理由でさぼってるだけでしょ?」
僕たちはいつだって他人のことがわからない。思う存分に力を振るう人のことも、振るった挙句に血が流れてそこに涙を浮かべる人の心理も、離れていたら伝わらない。笑うこと以外の感情がない人だって多様性だし、僕は人の嘆きや苦しみに対して反応するセンサーを持って生まれただけで、これがなければ周りと同じように笑っていたし、それを悲しむことだって……悲しみはいいかな。培うことだってきっと平気な顔でしていたはずだ。あたしは論理よりもハートで生きると決めたあの日から、ずっと手紙を裂いている。心で独唱する切なる思いは、たとえ意味がわからなくとも誰かに伝わる。伝わるという情景を徹底したリアリズムで投影する必要があって、あたしにはそれがか細く、拙いものでしかないはずのミミズみたいな感情が、どうしても忘れられない。これを失ってしまったら、僕が生きている意味なんてなくなってしまうだろうから。
でも世の中には生きてる意味すらも別に必要ない人たちが大勢いて、あたしは前まで、それを怖いと思っていたんだけど、苦しい、悲しいと悲観していたんだけど、最近はマシになって、たぶん違うだけで、違いというのが時に同種間での殺し合いを招くほどの悲劇を生み出す格好の種ということを理解しつつも、でも違うだけだとオセロの最後の一手で状況を全部塗り替えるくらいにはなんか唐突に許せるようになったのだ。というよりもどうでもよくて、違う人たちにもわかってもらおうとすることの非合理性、徒労、具合の良くなる薬を処方した重病人の様相、全てが相まって、あたしに『許せ』と伝える。『許せよ、許すまで、君を許さない、僕は君を絶対に許さない』。
僕にはとびきりキュートな思いや、それを実行する胆力や知性が備わっているけれど、これを生身のまま吐露することが生きづらいことはなによりも僕自身が肌感覚で理解していることで、ファンデーションの上にさらに白塗りをするような、意味のない感覚に襲われる。あたしだって生きたいよ、死にたくなんかないし、死ねばいいだなんて思いたくない。みんなに生きていて欲しいし、みんなが嬉しく思うことがあたしにだって嬉しいのに、どうしてか辛い時に全部台無しになって、振出しに戻るパラダイス《矛盾が》感覚の閾値に襲われる《レイプされた沖縄の子供みたいに》残酷で《悲劇はすぐそこにある》尊さに溺れる《価値観の再構築に》失敗する《成功する》。
でも火蓋は、もう切って落とされてしまって、サーカスの演者たちは真っ逆さまに首の骨を折る。夢は散り散りに砕けて、みんなの信じるものが幻想だって全員がわかっている孤独な前哨戦、僕はそこに立っている。槍だけを持って、密かなる楽しみを一合の米のありがたみをその身に刻むために、万歳って特攻する。汗臭いのは嫌いで、ここは現代。戒めなんて古臭くて、時代はバーチャルなんだから、あたしはこの昭和の人たちが作ったかび臭い社会の上で踊ることに決めたの。踊ったら、満ちたら、いずれ全てが輝き出して、あたしだけのパレードが始まるって。呼吸すらもかじかんで、燃えてるのはあたしだった。
あたしは、今でも忘れられない情景がある。それはあの日雨の中で君が見た光景と同じ。唐突に始まる意味深な情景のみの、情景としか語ることの許されない誰しもが詳細を把握しきられない記憶、記憶の中の鮮明さを、全体で語ることしか許されない崇高な光にも似た景色を、コンテンツなんかを神だとあがめている頭の悪い連中に、全員むかつくし本当に、でも恨みはいけなくて、いけなくないよ。特には殺すことだって必要だって僕は語った。
僕は園子音の映画が好きで、過去作は大体見てるのだけど、もちろんハマっていたのは十年ほど前だから、今仔細にこのシーンが、とかこの役者が、ここで、あの過去作と同じ演技をしているんだよなんて熱っぽく語れない。けれど、僕の魂には園子音の美学や、カタルシスは脈々と受け継がれており、卑怯な伝染は、神をも滅ぼす怒りの鉄槌だと、そう解釈するのも嘆かわしい。あたしには僕の言っていることがわからなくて、わからなくても以心伝心、電信柱のハシボソガラス、胡乱さだけが取り柄の未熟児、全部愛して!夢だと思った。愛なんて安っぽい言葉だけが彩るのを、『女』だからあたしは理解できるんだよ。
ヒミズの冒頭のあのシーンはなんだったんだろう。なんだったんだろうってあたしはぼんやりと考えて、たぶん意味がわからないものだと捨てた。正確にはわかっちゃだめだと思った。わかるわからないとかの次元にないもの、未知そのものを描いている気もして、でもそれは人間が触れられざる領域の刹那的な目測であり、僕はそれをあたしに理解して欲しくないと思った。目を伏せて、
呼吸。連投。
無限。
価値観の再構築に、悲劇の燃ゆる丘に
唐突なリスペクタクル
死んでよ
もう生きられないと思ったのは、僕が大学卒業を控えた四年目か、三年目かなんかそのくらいの物々しい空気感で伝わる、伝わった?悲劇の連続って、十代や二十歳そこそこの若者が悲劇とか(笑)笑わせんなよ(笑)ジジイになってから物申せよ(怒)と本質的に冷笑が好きな人たちにもきっと愛はあって、子供は可愛く見えるんだろう。あるいは子供のような自分をどこかで可愛く思うのだろう。僕は何度も泣いたし、情けなさすぎて体重が四十キロ台まで落ちた。でもその苛烈な様子に、誰も救いの手は差し伸べてはくれなかったし、それは至って当然のことで、死にたがりの僕の青色に、簡単に触れたら自分まで火傷すると、限りなく透明に近いブルーは簡単に消えないように、そう解釈するより他のない、自分しか頼れない感覚が今も僕を生かしていて、あの日『ヒミズ』の意味を知った時。『愛のむきだし』で浜の上で五分間くらいずっと意味のわからない朗読をしていた満島ひかりの演技であったり、白い棟の中で嗤う安藤サクラの狂った表情であったり、『冷たい熱帯魚』で最後に男が語った「生きるってのはな、痛いんだよ」という泣き叫び。もう僕はダメで、あんなものを見せられたらこの先生きていくことなんて絶対にできないし、僕は道に咲く花すらも傷つけられなくなってしまうし、ハムスターも、インスタの知らない女にだって、一切の発言ができなくなってしまう。それくらいに僕は園子音という映画監督に殺されてしまい、呆然として、就活なんてできなかった。意味がないと思った。園子音の意味が理解できる僕に、エリートサラリーマンは欺瞞にしか映らず、エリートというのは心がないのだ。共感性が皆無の連中。僕も今まではそうだったのだけれど……
断頭台に乗せられたフランスの王女は、最後になにを思ったのだろう。贅沢の限りを尽くして、貧民を心では見下していた彼女が、革命に屈して処刑されるその日、あたしは彼女がどう思ったのか知りたくなった。生きてるのって楽しかったですか?って。
楽しくないよ。痛みだから。それを理解しなかったあなたが殺されるのは必然で、僕は君を殺すし、君はあたしに殺される。縊死でも溺死でも感電死でもいいけれど、平穏な死なんて許されない。君が踏ん付けた花、近いを簡単に破る口、尻軽な腰にまきついた携帯ストラップ、大切だなんて思わないよ。僕に《あたしに》殺される未来は《駆逐される明日は》石灰岩の上に立つ遺品で《跡に残るのは無限の解釈だけで》見える世界に突っ伏して《孤独だけが人の価値観で》伝えなきゃって思う《伝わらなきゃって思う》いつか《人の》許されざる麻酔の毒に《神経を費やす感情の連鎖に》愛を《夢のはずだった錯乱状態悲劇はここにあって埋没した植林植えすぎた末路は悲惨孤独に対して何回も遊べる理屈じゃなくて唐突で不可解な末路は消滅する慈しみの螺旋階段劈く悲鳴のなせる謙虚さの果てに普遍の景色を見る愉快さはたまらなく劣情を催し未来のはずの出来事は連続する一枚ずつのレイヤーの最中春を思い知るのはユーカリの葉の毒素の一辺倒れの解決豊かさを躊躇って支配する資本主義の構造はかつての夢の話非道な海賊の逸話悲しいとかわからなくて解釈の不一致と全員一致会場は開けている呼吸は整っているフリルは乱れている糸はほつれているボタンは外れて頭のネジもどっか行っちゃって僕は僕でしかないよあたしはあたしでしかなくだからこそのだからこその連続を》意味だと思うの。
だけど劣等感はぬぐえず、僕はティッシュ一箱使って泣いたこともすぐに忘れた。どうせ意味だから、意味なんて生活に比べれば必要のないことで、必要のないことだから頑張りたかったけれど僕にはそれはできなさそうで、大学教授に「自分は、自分はって独りよがりに感じる」って嫌悪の表情を示された時に死のうかなと思った。いや、もっと死にたいタイミングは山のようにあったし、でもこいつ最後に殺して自爆しようかなとか別に思わないでもないはずだったのだけど、僕にそんな勇気ないし。わからずやは自分の言ったことをすぐに忘れるから、僕もわからずやになるしかないのかなって、それで人の真似事を始めたりもしたけれど、得られたのは不一致感覚だけで、一定の安心は得られなかった。僕はいつまでも不安定で、不定形で、予測不能で、解釈困難で、爆弾みたいな僕だから、あたしはそんな僕のことを尊いと思うよ。
偉いねって、みんなに言われる。どこか?ってあたしは思う。頑張ってもなくて、気持ちをただ出しているだけなのに頑張りって、何様なの?って怒っちゃう。こんな風に毎日書いても楽しいだけで、なんにもならないんだよ。楽しさだけでは人は生きていけないんだよって、あたしは別に死んだこともないのにそう言ってる。魂で解釈している。あたしにはやるべきこととの折り合いというか、未練というか、そういったもの一つ一つがやっぱり必要のあることのように感じて、それが誰からも必要とされていなければそうであるほどに、使命だと思うし、天啓な気分にもなるけれど、やっぱり意味は意味でしかないし、人は人の持てる想像の限界を超えられない。他人のことは一生わからないし、わかってるふりして踊るだけの毎日で、それを辛いとか思わなくなってきて、なんか大事だとかどこかで思えちゃって、泣けない。泣き過ぎて、もう涙出ないと思っても失恋したらわんわん泣く。ばかみたいだから、頭のいいひとに見下されていても平気で居られて、許してもらってなんならご飯とか奢って貰えて幸せって、大量の払込み書の上で錯乱してる。あたしはあたしという人生のヒロインで、僕は僕という人生の主人公で、折り重なっている折り重なりの二枚舌の裏返しにやっぱりどこか、愛情を感じてやまない瞬間はあって。
それをあの映画は教えてくれたんだと思う。どの映画?って本当にあたしはぽかんと思えるし、僕は忘れていい程度にしておくことが案外大切かもって諭す気にもなって、最早意味ではなく連続性だけの、大変なスペクトラムに身を置くいつもの、いつもの冷たさ、わくわくする楽しさ、嬉しさ、希望、明るい社会、社会って明るいよ!
だから希望を捨てずに生きていて、時折破滅したくなる自分を必死にこらえる。明るい振りして懸命に笑う。笑ってもいいことないのに笑うために毎日泣いてる。
園子音の映画の持つ冷徹さ、残忍さ、容赦のない畳みかけ、意味不明なシーン、そして圧倒的なカタルシスは、時代とかそういうのを超えちゃってると僕は感じるし、この気持ちを僕の友人や、かつて恋人だった人たちは絶対に理解しないだろうし、できないだろうけど、でも案外そういうことを思ったりする。適当、ランダム性のなせる業で、僕らはそれを大層なものであるかのように語るけど、本当にその辺にある石の裏でも見た方が良いと思う。そこにはうじゃうじゃと蔓延る言葉に騙されなかった奴等が大勢いるから。誰のなんの言葉も信じられないなら、僕だけ信じていいからさあ。頼りなくて、不甲斐ないことでも、語ることはできるよ。
語って、語りつくして尚言葉が湧いてくる、無尽蔵のエネルギー、核分裂反応。あたしたちの中にはそういうものが詰まっていて、それはたくさんの文化によって形作られた土壌によってもたらされた石油みたいなもの。園子音もその一人。
だからラブコールを書いたんだ。誰も読んでないってわかるから、大事に書ける僕だけの手紙、あたしだけの歌を届くわけの無い人に聞かせて転んで傷ついてまた起き上がって、僕はいつだって文化が好きだあたしはいつだって滅びが好きだ喚き散らかしても明日は来る狂った毎日の女神像の前で拝む人は苦しいいつだって苦しいそんなはずないかもいつか苦しくなくなっても僕は大事に思うしあたしは正気になんて戻らないよもうとっくに壊れた抒情を冷たい春の日差しに照らして芽吹く日の思いを浄化する精神病棟の中で一心不乱に叫んだとしても変わらないよ毎日はそうやって過ぎていく僕らの気持ちは遠くへ飛んで行ってしまうだからあたしは切なくてcharaの歌みたいなエモーショナルに浸れるのやさしい気持ちは嘘だもの女はいつだって泣ける男もいつだって困惑する重なって喜劇が生まれ分裂して悲劇が生まれるくっ付いては離れてのリズムの繰り返し僕にはそれはたくさんの人の顔がくっついた塊に見えてあたしは最中に愛を知る夢の話を遠くに放りやる意味すらなくなって形だけになって形すらも流動こそが本質だからただの枠組みで枠組みがなければだれも判断できなくて人類補完計画のためにあたしは瞼を切ったの僕は明滅していた時に愛はその一切の流れに冗長的な快楽を見出すけれど味気ないものは一切の類を捨てラベル張りの宿命はたどたどしい旋律のためのフィロソフィーかなぐり捨てて瞬く間に過行く生と死の交錯に愛を知れ死よりも大きな慈しみを抱いて眠れ呼吸を忘れ緩慢な態度に身を亡ぼせよこれは詩だよ連続性だよポエムだよどう解釈されても僕はここにいるよあたしも僕を見てるよ倒れる寸前の思いやり運命的なパラレルワールドだから忘れてどうか生きていて明日に嘆いても今があるから思いやりって、その程度のことだから味気なくてつまんないんだよね。