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暴走

モルカーの監督見里朝希氏のアニメ『Candy.zip』を観た時に不穏な気持ちになった。ややこしいような、こそばゆいような、あこいつ上手いな畜生みたいな、映像で絶対に勝てない位置というか能力の歴然とした差を見せ付けられているみたいで、心がジクジクしたのを覚えている。私はその時映像に自分の道があると思い込もうとしていたから、割と映像業界というのはとんでもない才能の持ち主がいて、それは映像作家の麦氏であったりとか、平岡政展氏などの圧倒的な出力装置と表現能力を併せ持った人というのがそれなりの数居て、居るものだから私なんて底辺だった。まじで特になんの才能もない本当にど素人だったのにも関わらず、威勢だけは良かったから制作会社にうっかり入社してしまい、なんかプロの道行けっかも?と錯覚してしまったのがその頃なんだけど、見里さんのアニメの持つ謎のもちもち具合、キッチュに動くおどろおどろしいポップさは、私が出そうとしても絶対に出せないものだから余計になんかこう、嫉妬した。嫉妬して、結構病んだ。結構病んで、私は最終的に映像を辞めてしまったんだけど炸裂する自我はやっぱり今もあって、昔からあって、なんでもない時間を過ごしてなんでもない私最高みたいな気分にはやっぱり全然浸れなくて、やっぱりやっぱりの連続はそのものずばりわかり切っていたことを再確認する作業で、私は「神アニメーターになって欲しい」と言われたときに感じたあの違和感、あの何とも言えない制作会社の居心地の悪さを今でもありありと思い出す。私の居場所はそこではなかったのだ、それなのに無理に溶け込もうとした。

 

それはそれとしてモルカーって私はほんの少ししか観たことないんだけど結構衝撃的らしいですよね。モルカー、ハムスターがそのままタイヤついて爆走、トーマスみたいに毎話必ず事故を起こしてぷいぷい言ってるなんかやばいやつそれがモルカー、そこだけ切り抜くとなんだ楽しそうじゃんとなるのはもちろん消費者側の目線であって、作り手としてこれを観るとえ、結構な枚数撮ってるうわここのシーン何時間掛けたんだろみたいなことが心配になってそれこそ心がプイプイし出す。身体が熱くなってきて頭がとろーり目薬になる。眼滴、垂らして僕はそういうメルヘンふわふわな世界でニッチな需要を満たしたいという謎の願望をずっと抱えていたのだけれど、実際の僕にできることはおどろおどろしいものを書くこと、おぞましいものの片鱗をそこに醸すこと、だったものだからそれはもう頭がプイプイしちゃう。ぷいぷいなんかで誤魔化されない非道さが私から醸されるのを見て僕はなんだか、視聴者ってわかってるよなとか思うわけなんだけど。

 

あり得ない速度で爆走する自動車が転ぶ理由はただ一つ、ひよるからだ。なんかそういうセリフの漫画もあったけれど、ひよるから、途中で心のブレーキを掛けようとするから事故る。事故って半身不随か即死する。普通はそんな速度危ないから出さないってそりゃそうなんだけど出すのがクリエイティブの仕事で、僕らは現実では出せない危険な速度域を法定速度なんかガン無視して最高速度を極めることを仕事にしている。しているっつうか、してないけどでもしなきゃいけなくて、クリエイティブでブレーキ=死だ。つまり常識=死。常識を守ったものから死んでいく、現実世界とは反比例の法則が働くのがクリエイティブの世界のありえない物理法則で、これを説明しようとしても

 

「え、こわ」

 

みたいになるのがオチなので言わない。言わないでおこうとしても言うのが僕であり、私はそんな僕のことを割とかわいいと思っているけれど、自分で自分のことをかわいいと思うやつは基地外とされるのが社会なるもので、そこは言うなよ……と内心思われて貼り付けられた笑顔を見せられるか、爆笑されるか、案外気に入られるかのいずれか。僕なら後者の二つを選びたい。私はドリフトが得意で、というか今でも文章でこうやっている通り、特に考えなしに書いている。書いていて、あなんか出ちゃったというものだけを出すというか、出ちゃわないものはそもそもで出て来ないから出せないというか出すという前提をまだクリアしていないというか出すという定義に苦慮しているというかとにかく出せない。なんならどうでもいいと思っている。出そうが出さまいが男性器がそこにぶら下がっているように、無いことにしておかないと色々と社会が混乱するから無いことにしておきましょうねという大人の事情はわかったけれど、それはあくまで常識的な現実においての法則なのでクリエイティブには一切関係がない。むしろクリエイティブとは子供が支配する楽園であり、なぜならクリエイティブの世界での失敗は肉体的な死ではないから。駄作を作っても、評価されなくても、作ったということだけで得点なのであり、完成させた、人様の目に晒したそれこそが愛すべきポイントなのであり、ルールは子供が作っているからそれだけで偉いっとなるのがクリエイティブの最高なところで、まあそれが最近行き過ぎて傲慢だなと思うことも増えたわけなんだけど、僕はそんな天国で死にたいと思っている。最高速度で振り切って壁と激突して破壊したって全然かまわないと思っている。できれば一瞬で死ねる方が痛くなくていいじゃんとか思う。思うけど、

 

死にたくない。僕は死にたくない。私はまだ死なないよと諭す。僕はそれを受け入れない。怖さが両腕を支配し、飲み込み、絢爛なラフレシアがそこに腐臭を放つ蕊を堂々と露出させたとしても、僕にはそれは生臭い雑巾のようにしか映らず、希死念慮で毎日悪夢を観る。観て、死にたくないから毎日書く。死なないよと呟く私の声は僕の耳には届いていないけれど、私はそれでもこの子の精いっぱいの頑張りが可愛く思えて仕方ない。舌なめずりしてしまう。もっと病んでほしい、もっと壊れて欲しい。もっと取り留めがなくなって、もっと居場所を失って、とにかく参って欲しい。そのねじくれた身体から血のような雫が零れてそれを金のゴブレットで救いとるからさあ。

 

酷いね。何がと私が聞く。酷いね、そうやって僕が苦しむところが観たいんだと僕はいじけた子供みたいに呟く。当たり前だよ、私は僕自身の情けない態度こそがクリエイティブの本質だと信じているからと諭すも、僕はその言葉が金や保身のことしか考えていない大人の言い分にしか聞こえず、反論する。私は当たり前だともう一度強く言う。「当たり前だ。この世は大人が動かしている。お前みたいな子供が安全に爆走できる社会を私達が培っているんだよ」僕にはその言葉は届かない。侵入しようとしてくる秩序を拒む。「それでいいんだよ。君は麻酔に掛かってはいけない、君だけは私のフィアンセでいてくれ、魂の片割れ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自動操縦モードでひき殺したら車の責任?人の責任?って話は結構ホットめに界隈を熱くさせている議題だけれど、私はたぶんだけど車の責任にするかな。自分が乗っていたら車の責任だし、もし車の会社に勤めていたら平気で人の責任にすると思う。責任ってめんどくさいなあ。僕みたいに責任皆無の安全地帯で妄想の中で無双したいなあって、私だって思わなくはないんだけれど、それは私の務めではなく私は僕やあたしが暴れた結果の後始末をする係で、パーティが終わった後に誰も片づけをしなかったらその会場は二度と使えない。そう相場が決まっているものだから私が汚れ役を買って出ているというかまあそこにある種の『やれやれ』が存在しているから私は嫌ではなく、ただたまにだけど、自分も暴走できたらなと思う。目のでかいぷりぷりの印刷された女の顔を張り付けまくった車に乗って、痛々しさ前回で暴れてみたいとどこかで思うんだ。長男の宿命、いい子だねっていつも言われてきて、

 

それが苦しかった。死にたいと思った。私は私の呪いを解くための魔法を自分に掛けて、今度はその魔法が呪いと化した。いつまでたっても私は常識の中から出られないし、クリエイティブを羨望の眼差しで見つめながらそこにある欺瞞も同時に感じ取る器用さ、その両方が憎くて憎くて仕方ない。もっとぶち壊れていたかった、子供のように、なんの遠慮もなしに酷いことをしてみたかったし、そこに私のような人格が現れたことは悲劇でしかない。暴れるツーリズム、選挙区分けされた人民統制、仮初の秩序、パンケーキのケーキの部分。ソースが掛かった人生を私も歩んでみたかったし、それを僕がやっていることを私に励ましとして伝えるために僕は居て、その両極端の交代制が、なんか斬新で面白いって笑えるのは僕だからで、私だったら心配だよね。私は心配なんだよ。

 

死なないでって思う。そのまま壁と激突されて死んだら悲しいのは……悲しいのは誰なんだろう。死ぬのは私でもあるんだから、僕が死のうが関係のないことなのに、私はそれでどうして悲しいとか思うのだろう。僕は私であり私は僕でもあるのに、そこになんの思慮も介在し得ないこの感じ、さぞ生きてるって感じがしてグロテスクだけれど、私はそこに面白さを感じてやまない。このパラレルなマリオカートのような人生に、なんらかのダンスミュージックのアップテンポを感じてやまないのだ。

 

躁、そうじゃないよ。そうなんだけど、躁じゃなくて、僕はそういうのを全部取っ払って私にも味わってほしいんだ。僕の本質的な自由さに触れて、気だって触れちゃって、イッちゃって、破天荒なままで人生終了しちゃっていいんじゃないとか本気で思っていて、なぜならそれは僕の刹那だから。それを私はたぶん嫌がるんだと思うけれど、本当の嫌じゃないことくらいわかる。振り回されることを口では嫌といいつつも、そういう男にメロメロな女がいるように、僕も私を振り回すことが楽しいし、それはかつて人生において味わった全ての事象が逆転して放流されるほどの衝撃的大洪水を引き起こしかねない無限の可能性のジャンプしたら目まぐるしく動くスロット形式の正方形の味わい深いハムスターの轢死体も温かさがまだ残る室内の照明の切れたランプの側の猫背の誰かの背中の解釈を得る映像作家に憧れてしまった哀れな僕の魂を救うのは私ではなくて、私なのか?

 

 

でもいつも気持ちよくってさ、天使は悪魔に絆されて毒々しい精液を注入されて色が変わる。それを苦しみだとかほざいてさ、君が望んだ結果なのにね。僕は悲しいよ。君は美しいよ、今だって、きっと明日からもさ!天国に行けるために善行を積む?逆でしょ。善行をいつの間にか積んでいたらたまたま天国ルートの道が開けるんでしょ。

 

ただそれを一過性のものとしては僕は扱わない。例え私にとっての悲劇そのものでも、爛漫な全ての作品において、秩序は模範的な理想を叶えるための花やバナナや爆弾であって、それらを放り込んだ闇鍋を四人でするのが最高!いつだって隣のやつはぶっ殺したい。でも殺すのは想像の中だけ。僕らは想像の中で、いつだって嫌いなやつの首を絞めている。

 

私はいつも想像をする。もしも私なるものが死ぬ時に肉体を離れるのなら、私の意識は残るんだろうかとか。するとAIは、「今わかっていることは残念ながらブラックアウト《暗転》、肉体が死ねば意識もそこで消失する」のだそうだけれど、私にはそれは程遠く聴こえて、こんなに肉体から出たがっている魂や、意識や、パラレルな自我が本当に肉体が作り出した幻で片付けてよいのだろうか。意識が肉体という武装をしたのでは何がいけなかったのだろうか。そんな風に思案しても、結局今の科学でわかって居ることまでが私たちの照明範囲で、舞台上で、そこから先は誰が潜むかわからない暗黒森林。科学のメスが入れば入るほど、その中から化け物が現れるリスクが高まる。

 

僕はよく化け物だって言われるんだけど、言われても全然ぴんと来なくて、自分がただやりたいように振舞う中におぞましさが醸されるのは、それは社会がそういうものを与えてきたからでしょう?なに言ってるんだとしか思わなくて、その他人事な感じが私にはぴんと来なくて、どうしてそんなに我がままに振舞えるんだと思う。思うけれど、僕はそれが天性のものだと気付いていて、私は客観的に天性のものだと理解できる。だからこのアンバランスさがある意味ではバランスの取れている状態なのであり、ドリフトする位置関係、レバーを左、左、右に倒して出る青い火花、そんな風に自らを俯瞰すると、私は今の自分がなんてつまらないものなんだろうと思う。救いたい、と自分で自分のことを思う。

 

救われているよ、と僕はぼんやりそれを見て思うわけで、別に救われたいと言っている人は誰からも救われていないのではなくて、ただ青い芝生を眺めているだけ。それが何畳分の広さのプールであろうが関係がなくて、見栄とか、虚栄とか、そういうものから脱却しない限り、いつまでたっても自由ではいられないって、緑青が付きまくった自由の女神像に哀しみを感じるみたいに、僕はその嘆かわしい景色を、いつまでも自分の中でないがしろにしておきたいと思った。モルカーに踏みつぶされる花壇の花みたいに可哀想ななにか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だけど歴史は、僕にとっての轢死は、私にとってはとても大きな感慨であって、私を構成しているものだと思い込んでいて、それを手放すことの苦しさ、生きることの是非を途方もなく感じ取ったのは悲劇そのものだろうと、我を忘れて語るのは哀しみの功罪。ぶっ飛んでいて、わけわかんなくて、それでもなんか生きようとか切に思えるのは悲劇の分際。そんな風に価値観を再解釈していくと、最寄りの駅が見えてくる。隣駅だよ、僕は歩くよ。疲れたとか言わないでよ、背負うよ。僕まだ若いしなんでもできる。

 

そんなわけにはいかなくて、秩序が混沌に屈するわけには行かなくて、でもどうしようもなく大人の私が、子供のような僕にひれ伏す瞬間にある種の悦を感じてしまう。たどたどしい爆走車は現実では迷惑なだけだけれど、想像の中ではそれはエネルギーを生み出す面白さの根源で、私はそのブレンドされたないまぜな感覚を今でも夢に見てしまい、圧迫され、起きる。起きてここが秩序でよかったと安心するのだけど、胡蝶の夢。夢の方が現実かもしれないし、先ん立って伝えてくれる僥倖なのか虫の知らせなのかその辺はよくわからないとしても、分断される悲劇の予兆は私を前進させる。今日も書かなきゃと思いモニターに向かわせる。

 

爆走。エンジン吹かしてパーティ会場に向かうセンチメンタルさは必要がない身分証も仏の顔だけ何度だって叩いていい夢と希望だけが博覧会で妄想は現実のためのエチュードで練習するいつにも増した不快な顔のおじさまおばさまたちの首を撥ねるのが楽しい!淫乱さは孤独であり、予兆はこの先起こり得るであろう悲劇の先に立つ銅像に近い魂魄の現れで、意味不明さが混沌にとって必要で、えこんなんで良いのと思う冷静な人は全裸に剥かれレイプの対象になる。そんな現実が今すぐそこまで迫ってるのにさあ、君乗らないの?もうイッちゃうよと冷静な自分が声を掛ける。目は滾っていて、血走った血管だらけの四白眼に、真実なんて通用しなくてあるのは信仰によく似た嘘と、内実がまざった真理だけ。器はきれいに磨かれていて、屈託したハバネロソース付けのセロリは美味しい。ポケットの中の夢はたくさんのきらきらを今日も全身運動させる。猛烈に痒い心や足や心が浮つくと足が痒くなるんだよ。なんでだろうね《アカシジア》運命って一滴に言えて、言えるからこそ解釈の余地があって、一息で吸える脱法ハーブ、淫猥で、ねちょねちょの車のタイヤから滲み出るタールを飲み干したい、飲み干したくってさあ今も、粘液を求めている。人から分泌される漆を今も飲みたくて、でも飲んだって乾きは癒えやしない。

 

だから僕は書いているんだ。私は冷静な目でそれを直すかもしれないけれど、直さない方がいいんだよ。こういうのはノリだから。ノリが必要な場所で空気読むやつがいたら寒いように、夢を追ってる若者には自爆させときゃいいんだよ。自分の息子だったら可愛いよな、わかるよ。でも自爆させろ。火傷して、両足でも切り落とせ。それが唯一できる救済の証であり、おれらが生きた証だから。おれは妄想の中でも一人で孤独だよ。だからこそ暴れられる真実をこの身に宿して今日も生きる。丸儲けなんて絶対に言わねえし、言ったらお前のこと殺すけど、でもおれはそういう冠をもう茨だとも思わなくなったんだよ。額から流れる血で眼前が真っ赤に染まっても、そこから覗く切り裂かれた白い目だけは今もお前のこと見てるから。今も、これからも、お前から目を離さないからな。