全盲に憧れる。こんなことを言うと「じゃあなって見ろ」と両手を縛られて瞼をこじ開けられて鋭い針を二つ眼球に差し込まれて失明させられる想像もしてしまうのだけどそういうことではなくて、私は単純に、全盲の世界を感じられないからこそ感じてみたいと思うのだ。それは恒久的に障害を抱えたいとかそういうことではなく、知らない世界のことを知ってみたいという好奇心に基づいたものなのだけど、それがあまり理解されない。全盲と一口に言っても色々種類があるらしく、光を感知できるもの、できないもの、部分的に見えないもの、ぼやけているもの(極度の近視)など、様々あるみたいで、私自身も視力がかなり悪いので、眼鏡を外すと二十センチ前までくらいしかまともにみることはできない。視力がいい人というのは目が光っている。絢爛というか、力強いというか、目の比率が大きい人は視力もよかったりする。これって結構面白い話で、人の視力の良さを客観的に図る方法などないと思われがちだけれど、実際は両目がどのくらい開いているか、ものに焦点があっているか、など微細な視覚情報においても私たちは判断できちゃっていたりする。するから本当の未知の領域って色だけなのだ。モダリティの異なる感覚を私たちは他のなにかの感覚で想起することはできるけれど、色だけは他のどの感覚でも想起しようがないため、私たちは他人が見ている色が自分の見える色と同じかどうかを確認することができない。これをクオリアという。
そんな難しい話は置いておいて、あたしは全盲の人の感覚で面白い話を聞いたことがある。とある美術館で盲目の人が学芸員をやっていて、盲目なのにどうして美術が楽しめるのかというと、例えばモネの『睡蓮』なんかだと優しい川の流れの中で、葉っぱがいくつか浮いている。微睡みの中にいるような、夢心地な感覚。のように言葉でそれらを聞き、想像することで、例え目で見なくても美術品の持つ魅力を別感覚で味わうことができるそうなのだ。全盲のユーチューバーなんかも世の中には居て、その人たちは私たちが想像するよりも遥かに普通の人だ。普通って、普通なんていっちゃだめなんだけど、でも本当に普通で、目が見えないって晴眼者にとってはとても苦しくて危なくておっかないものっていう風に捉えられがちだけれど、YouTubeに出ていた全盲の子供はどこにでもいる普通の子供と変わらないように見えた。ただその人には視力がないというだけ。
明るいし、楽しそうだし、ちょっと慎ましくて子供らしいずるっぽさもあって、あたしは全盲に対するイメージが変わった。そりゃそうな話で、全盲の人は先天性の人もいるのだ。あたしだって生まれた時から自分が他の人と違うことなんて沢山あって、でもそれらがないからと言って自分の能力が劣っているとか、そんな風に思う必要はなくて、ただ持って生まれたカードで勝負するだけなのだ、人は。私もそう思うし、あたしはそれに対してある種の希望的なものを見いだせたりもする。
その学芸員の話しで深く感銘を受けたのは、その人がモネの睡蓮を見て、近くにいた目の見える子供が「蛙だ」と言ったことだ。実際にモネの睡蓮に蛙は描かれていない。その子供は葉っぱと蛙を見間違えてそう言ったのだけど、学芸員さんは不思議に思った。蛙と葉っぱは全く別の物なのに、目が見える人がそれを間違えることが不思議で仕方なかったらしい。
見える人でも間違えるんだ。盲目であれば、葉っぱと蛙を間違えることはない。なぜなら見えなければ『緑』もないわけだし、生き物と植物は動く、動かないできっぱりと別れているものだ。だから見える人の方が間違ってしまうという現象について学芸員さんが語っていた時、あたしはなんだか途方も無い気持ちになった。自分が『見える』ということに随分驕っていたんだな、と気付かされる思いだった。
私はそれを聞いてあたしが感じたことを追体験し、そして見えない世界のことを想像した。見えない世界は真っ暗のように思えるけれど、実は案外明るいらしい。ただ明るいと言ってもその視界はほの明るいグレーで覆われ、深い霧のように見えるらしい。見える人でいうところの、煙で視界が塞がれたときのような、影も形もない煙だけの世界。目を開けていても全てがそんな風に見える人たちがこの世界には大勢いて、私は自分が書いていることや、考えていることは随分とちっぽけなのだと思う。世界のことを知った気でいる時ほど人は、自分の無知を自覚しない。
けれど、あたしはそういういい話で終わるのが苦手だからまた話をずらすけど、あたしたちは当然目が見えるけれど、でも別の『障害』だってやっぱり持っていて、それはここでは検閲機構が邪魔をして上手く喋れないんだけど、でも言わんとしていることはわかるでしょ?精神の話しだよ。あたしは時折自分の背中からやってくる気配に自分で食べられそうになる瞬間があるし、私はそれに苦しむあたしの姿をよく知っているから、尚のこと痛みを共有したいと考えるのだけど、痛みじゃないよ。必然だよ、とあたしは諭して、「必然だよ。苦しみは持って生まれるべきもの。苦しみを苦しまないで生きる方法を見つけるために人はあがいて困惑するんだよ」私はあたしがこんなことをいうのは珍しいと思ったけれどそうではなくて、私もそうなのだ。私も、「感覚だけは自分の絶対である」と妙に信じ切っている瞬間がある。
世の中には被害者、加害者という図式がある。これは人間が対立構造でものを考えた方が直感的に落とし込みやすいということにも関係しているかもしれないのだけど、どうしても短絡的解決を求めてしまいそうになる。加害者は悪、被害者は正義って、その逆もあるけれど、そういう風に物事を片してしまえば易々と、別の問題に着手できるという考えってやっぱりどこにでもあると思うけど、あたしはそういうのってあんまり救いがなくて優しくないって考えてしまう。対立構造は物事をある側面から見てわかりやすくするけれど、その考え自体がなにかを前進させたりってやっぱりしなくて、社会はむしろ停滞するというか、ありもしない争いばかりを想起するっていうか、私もそう思うでしょ?って、試しに聞いてみてあたしは私が難しい話を好むことを知っていてこんなことを言ってる自分に躊躇いを持つ。「難しい話ばかりでつまんなかったでしょ」といつの間にか態度を逆転させてくるこの女は、大層私をおちょくっていると感じるが、止めどなく寄り添いだけを求めるのであれば人はそこに感慨を見出せる。思いに耽るのは大層なものの成れの果て、行方は信じられない素振りで飄々と醸す幼女性の、その神秘に埋没する意識そのものなのだと。なに難しいこと言ってんの、とも思うけれど、あたしは大人をおちょくることが好きで、大人って社会性動物だからどうしても群れで行動しないと生きていけないけれど、あたしみたいなものはもっと邪悪なもの。天性の悪戯っ子だと思っていて、でも僕ほどに自由じゃなくて、ある程度のしがらみは薄々わかって居る。おままごとで大人役をやりたい子供。そう自認すると自分のことを落とし込めたような気がするけれどこれだって言葉に騙されている図式に他ならず、あたしは私の言うところの意味を絶望的に理解している。腹部を開くと中から血まみれの子供が現れてこちらを見ている。視ていて、時折世界のしっとりとした絶望に浸ってスープでびたびたのパンを食べるの。味わいでしょ?
って、味覚がない人も世の中には居るのかもしれなくて、ああ多様性だなんてあたしが呟いているところを見て私はこいつ全部わかってていうところがタチ悪いなと相変わらず思う。私はこいつがやりずらい。大人をたぶらかすのが好きな女豹、私はそれにつられるわけには行かなくて、でも思考は共有でしょう?なんて声も今更に聴こえていて、歯がゆい。いっそどうでもよくなれたらいいのにと感じる術も曖昧に、私はあたしに振り回されることに本質的なものは見いだせず、結局児戯なのだと思う。何言ってんのとあたしは思う。僕の語る狂気もあたしの現実的な冷めた目線も、両方あっての本質でしょうと。どちらかだけに身を置くことは、それこそが私が恐れた対立構造なんじゃないのとにへらに笑って挑発する。私はその挑発には乗らず、淡々と返す。「言うなよガキが。お前からは本質的な語りは生まれない。発露はいつだって狂気から生まれるものだ」あたしは返す。「狂気だけだと人間は壊れる。だからあたしみたいなブレーキがいるんでしょ」お互いに会話にならないと察すると、私たちは離れようとするが、肉体は一つなので結局のところまた混ざるしかない。水と油。私は《あたしは》こいつが嫌いだ。
もれなく一等星が弾けて、許せる人の解離性症状にはもううんざりで、人は時折数多の想像を上回る絶頂の悲劇が先に待ち受けていたとしてもグレーの視界で耐えるしかない。それは溌剌とした天使の装いで、彼らも、彼らを待つ人も全身があろうことか蛇なのだ。蛇に包まれた邪な装いで、私に、私に秩序をくれる。ひとえにだらしなく解釈は生まれ、人はブルーコマンドに導かれて、褪せる血の色に秩序と模範的な定義を見出すのだ。それは呪術的ではあろうが……憎しみで、怒りで、悲しみで。全てやりきれない所作に私は踊り狂うのをやめられないのだけど、そこには切って落ちる繊細な涙がある。プリンス・ルパートの滴が爆散するその飛沫に、明後日の方を見る、慟哭は千の絆を演出する魔法のようで、ありもしないうわべだけの関係性に、最早返す言葉はなく、私は私の思う術を必ずと言っていいほどには培う、役立たせる、安牌だから。けれどもそれを理解しない常套句に、尚更かじかんだ指の矛先を突き立て、内蔵を発見するのだ。手遅れだろうに。人は、いつまでたっても他人のことがわからない。それは僕が思う悲しみを私が代弁しているにすぎず、依り代としての未来は今ここで、氷のように溶けてなくなってしまう一過性の個体なのか。
そうとも限らないよ。いつもセンセーショナルな上の面、構えて踊るダンスミュージックアップテンポに運命論者はきらきらの鏑木を費やすもって落とすダンスは最高。意味不明でも狂気的で倫理的でも吐き捨てちゃって、いつでも現代の象徴として、金がある、金があるからどこにいても繋がれる、魔法みたいなポップミュージックあたしはDIVAで繊細な子供の心と大人の怜悧さを持ち合わせて語る、語るよバックコーラスが飄々と流れる全ては交じり合って解ける人は淫猥だから、あたしはその淫らな愛情めいた炸裂が好きで、瞬く間に夢心地の夜は、唐突に溶ける氷みたいに延々がそこにあって、いつまでも溶けない氷を永久凍土っていうんだね。笑って、かじかんで、つんのめって、落ちる。グラスは傾いて中にある血のようなワインをカーペットに垂らす。殺人現場みたいでわくわくする。なにも考えなくて済むように、なにも行わなくて済むように、あたしはあたしの世界を構築する。それは不可解さと連合したある種の誓いみたいなもので、抽象理論と魔術が混ざる。それもいいんじゃない?あたしのこと嫌いだろうけど。
嫌いじゃない。私は言うけれどあたしはそれを信じない。ここはちりちりと肌が焼けるほどの印象で成り立った明るい陽射し。黒幕はまさかの人で、でもそれってどっちでもよくて、かけがえないと思えば死ぬし、かけがえあると思えば生きるし、どうとでもなるのが音楽の良さで、私の魔術とあたしのポップさはお互いに交わらないものだとしても、背中合わせでグロい夢を見る。それくらいなら許容できるでしょ?できない。私はあたしが嫌いだ。あたしのような人間がいることが耐えられない。なぜ?薄汚いから?汚いのわかっていてあたしは私を刺しているんだよ。男尊女卑ってウケないよ?そうじゃない。そんな短絡的な理解ではなくて、嫌いにも好きにも道理がある。それをただ白日の元に晒したいだけで、言わんとしていることはわかるけれど、踊ろうよ。音楽は始まってるよ。あたしは私の踊るところが観たい。
とても下手な動きだった。生まれたての子鹿でさえもっとはっきりと体幹持ってるよ、といいたげなくらいに私のダンスは酷くて、あたしは思わず笑ってしまったけれど、でも仕方ない。ここは想像の国だから。想像力が強ければ強いほど、より上手に躍れるゲームセンター。私はきっとゲーセンに例えることを嫌うだろうけど、事実だもん。楽しいだけが正義の国で、秩序がとか運命がとか、あっあたし運命って言葉は好きだった。
もれなく充実した夜に、朽ち果てた夏の線引き、今は冬だけど季節なんて関係なくて、朝が来るまで一生一緒でずっと一緒で絢爛豪華な紙吹雪、散らして。清潔なタオルで身を包んで、あたしあなたとなら一緒にいたっていいのになとどこかで思った。どうして嫌われるんだろうとも思ったし、けれどどうして嫌われるのがちょっぴり心地いいんだろうとも。私はいつまでも下手な踊りを見せてた。下手すぎて、なんかぎっくり腰の老人みたいで、そこも可愛かった。これがいつまでも続く夢ならば……これ以上言っちゃうとよくある歌詞になるから無いとしても、でも本当にそう思った。愛が永遠ならずっとずっと幸せなのにな。
見てくれだけで判断するのは晴眼者の悪いところ。でもあたしたちは鮮血がどっか行っちゃって、社会の模範に合わせると苦しくなる。息が詰まって過呼吸になる。それが目に見えないもので、唐突だから人が怖いって思うのは無理がなくて、だとしても怖いって言われることが本心から嬉しいわけではない。非道って思われても構わなくて、いたずらっ子なだけだから。純粋な子供の魂が、たまたま住み着いちゃったのがあたしなの。
私だってそうでしょ?とあたしは問い掛ける。私はそれを無視したがっているみたいだったけれど、教師の務めでしょとか思って引率を頼んだ。私はやれやれと言いながら、仕方なしにあたしを引っ張る。言葉だけで、肉体を介さず。ここは意識だけで繋がる世界で、あたしたちは手を繋いで、私は手を報いで、ありふれた世界の中で気が触れる、そんな瞬間を照らし合わせているのだと思う。豪奢な生肉がフルコースのメニューの中の一つで、このあとデザートも来るからね。アフタヌーンティーでゴージャスに決めなきゃ、気持ちが廃れるし廃れるなら気持じゃないし。相変わらず言っていることがよくわからないけれど、それでも仕方なしにあたしと過ごす。日々とはそう言うもので、ほらまた感慨に耽るとあたしが邪魔をする限り、私の孤独は癒されない。歩く騒音のようなあたしの感受性に、私はまいってしまって、情緒というものを知らないのか?穏やかさは、霞を食む仙人ではないにしろ、必要なものだ。ダンスミュージック?馬鹿言えそんなものは虚栄だ。肉親だ。
それは私が僕のことが好きだからでしょ?とあたしは反論して、それも短絡的なものの見方だと私は憂いで、憂いたところで事実は事実なんだし、それはもう証明しようがないことでしょ、間違えた隠しようがないこと。そこを間違える時点で、と私が言いかけるももうあたしはどこかに行ってしまって、ようやく静寂を取り戻した最中私は一手の炎を視る。
それは盲目の光だった。皓々と燃える火柱は奥にある景色を全て飲み込もうとする灰燼で、私は取りつかれたようにその日を見た。焦点の合わない瞳で、眼窩にはなにも入っていない気がして、憑りつかれていたのは誰だったのか。視えるものが真実だとは限らない世界で、脳が景色を作り出していることがわかったとしても、それを見ている私という自我が金輪際、過ちを過ちとみなさない全ての無垢な魂にのれんを被せることは即ち、小さな死──サクリファイスであることに、どうしてか催す気分になる。人は誰かに屈服したいのか、あるいは絶望的でありたいのか。本当は理解して欲しいと思う私の末路には夥しい血の絶壁が、そこに立ち竦んでいることも行方が知れず、檻に入って詩を詠む。死を待つ人の家に大渋滞を起こすのが現代で、その世界の断片に見えるこの火は、偉大な火柱は、中立そのものを破壊する。両極端な世界で、世界の狭間には火だけがあるのだ。私はそれを美しいと思ったし、あたしはそれを退屈だと思った。