なんの気なしに腕が動く。動く、前後運動する。ごりごりと上腕筋が盛り上がった太い腕が肩の部分まで捲し上げられたぼろりと露出した腕が機械的に動く。振動で肌が震える。張りのある表面にリズミカルに血管が浮き沈みし、低い男たちの声が応援なのか歓声なのか、その辺はよくわからないけれど部屋に響く。大きな家具がのそのそと足が生えて居るみたいに起き上がり、肩を揺らしながら移動する。小さなものも、大きなものも、運動そのものが楽しいらしく、音楽にノッている時に人がとる行動と同じ動きを家具自体がする。かわいい。懸命に移動し、「おーらい」の声でどこか知らないトラックに運ばれる。イスズ?トラックって大体イスズだよね。あたしまで気分がノッて、「なにかお手伝いしましょうか」と伝えたあたしの声に対して「あっ大丈夫っす」と一蹴され、ああと思ったがああならああでああん失敗したまあいいかと思えるのがあたしのいいところ。
トラックに荷物を全部『搬入』し終わった後は、午後のブレイクを楽しんで、それから何をしたっけな。たぶんあたしは移動をした。大学時代にお世話になった家を離れて、東京という新天地に足を運ぶために新幹線に乗ったんだっけ。でも乗ったことをあんまり覚えてない。乗ったのか、車体にしがみついたのか、そんなこともあんまり理屈でどうとかなくて全ては楽しい未来のため。未来行の電車に、あたしはたぶん乗ってたんだと思う。
男の人にどうして筋肉があって、『女』のあたしにないのか、それは今でもたまに不思議に思うというか、実際のあたしの腕はそれなりに太いし、肉も付いているし、別にそこまで軟弱に見られることもないんだけど、でも実際に心境としては常にぼろぼろのハート。情けなくって、あざとくて、とてもじゃないけれど男の人が醸すような『野生』感は全然あたしから湧いてこなくて、その違う区分がなされた人間同士が惹かれ合ったり、恋に落ちたりすることはなんなんだろうな。それ単体でかわいいっていうか、運命って全部かわいいじゃない?別に可愛くない部分とかなくて、かわいいって思うことしか許されていない感じ。かわいくないって少しでも思ったら地獄に堕とされる感じ。そんな幸せ強制装置みたいなものが運命であり、人生であり、それがあたしは当時もの凄くいやで、でもいやだったから嫌々言うてたらなんか地獄に落ちました、てへってのが事態の全てなのかもしれないけど、全てだとしてもあたしが地獄に落ちる道理なんてない。あたしだけが落ちるくらいならお前も落として地獄で殺し合いしようや、と本気で思うくらいにはあたしは昔から殺気に満ちてて、でもそれがなんでなのかっていうと、やっぱりよくわからないんだよね。
大学時代にアルバイトを転々としていた。あたしは仕事が続かない人だったから、アルバイトもすぐ首になるし、首になる度に「自分が悪いのかな?」って一瞬だけ考えた。考えて、でもその気持ちを誰にも見せないまま忘れる、ということを繰り返していくとあたしの腹の底にはよくないものが溜まって行って、当時の自分の学業や友人関係のことなども災いし、割と真剣に疲れていた記憶はある。なんでなんでってぷんすか暴れてしまう時もあったりしたけれど、それはいいとしてあたしはとある拍子にバーで働くことになった。そこは知らない人に紹介されて行った知らないお店で、あたしはそこの店長に入店その日に「バイトする?」と言われ、二つ返事でOK出したの。働きたかったし、結局そこは二年以上続いたし、やっぱりあたしが悪いんじゃなくて適材適所だったんだとか思わないわけではなかったんだけど、一応最後はあたしが悪い状況にもなった。
当時あたしの生活サイクルってめちゃくちゃで、寝る時間も寝てる時間もバラバラで、バイトに行かなきゃいけない二十時くらいにうわっと目覚めてしゅばっと準備して颯爽と坂を自転車で降りてダッシュで店に付く。寝ぐせもそのまんま、みたいな感じだったからよくあれで許して貰えてたなと思わないわけでもないんだけど、でもあたしは薄暗い空間が好きだったし、煙草の匂いが服に付くのはちょっと嫌だったけれど、他に働き口のなかったあたしには我慢できる範囲で、お客さんと話すのも、店長に可愛がられるのも全部それなりに楽しい思い出だったんだけど、
ある時お客さんから告白された。告白っていうか、なんなんだろう。なんだったっけ?と思い出す瞬間に記憶は霞に落ちて、薄く掻き消える秋の枯れ葉の如く静謐な、孤独が木霊するにはふさわしい連携の、記憶の中に微かに宿る淡い劣情、みたいなものがあたしの印象でしかなかったし、身体もがりがりに細かったし、顔ももっとかわいい子は他にいると思える当時のあたしになんであの人はあんな風に優しくしてくれたのか、今でもその辺りのことはよく覚えていないんだけど、『豊さん』って名乗ってた。豊さんは、あたしを大層気に入ってくれて、全然洗濯さぼってたはずの衣服に顔を近付けて、「良い匂いするな」とか言ってくれたのを覚えている。
あたしは人の好意に気付くのが遅い人だったから、というよりはん?と思う連続の跡に、あらあらと濁流にのまれて気付いたら「そうだったんだ……」となるのが当時の日常だったから、今もなんだけど人の好意って気付くのが難しい。悪意にもあたしはそこまで敏感じゃなくて、他人って言葉を放つ粘土だと思っている。粘土に目と口の部分だけ指で窪みを作ったら、勝手に瞬きしたり、喋ったりするようになって、それが『楽しい』からあたしはお話してるだけで、全然他人のことを理解なんてしてないと思う。思うし、豊さんに対してもそんな感じだった。好いてくれるから好く。それだけの反応をしていて、あたしはぼうっとしている人だったから豊さんはそんなあたしのことも多分どこかで居心地よく見つめて居たり、たぶんしてたんだと思うけど、あたしは気付けなかったし、やたらあたしの出勤日に居るなあとか、名前を良く呼ぶなあとか、顔を見てくるなあなんて、色々点と点が結びつくきっかけはあったのだと思うけど、あたしはたぶんどうでもよかったんだと思う。好いてくれるなら好きだけど、その好きはたぶん別次元に向いている『好き』だった。
豊さんの好意が決定的になったのは、あたしが何度か豊さんの仲間の遊びに誘われるようになってから。豊さんは肉体労働者で、仲間もみんなガテン系で、楽しそうにはしゃいでいてもそこに裏の表情とかを読み取れないタイプの本当に楽観的そうに見える集団で、その中で豊さんは少しだけナイーブな印象を受けた。楽しそうに笑っている奥に、なにかの感情を隠しているみたいな、蓋をしているみたいな、そんな時々笑えていない目をする人にあたしは思えて、それは仲間内の遊びに誘われて、飲みに連れて行かれた時にも思った。話していても、豊さんはたぶん別のことを考えていたのだと思う。
豊さんと話すのは正直すごく普通で、普通って言うか、別に楽しくないわけじゃないんだけど、人生ってもの凄く楽しいことってあるじゃない?もうありえないくらい、腹から声出るくらいにゲラゲラ笑えるひっくり返るような面白い出来事ってやっぱりあって、そんな抱腹絶倒の毎日を過ごしていたから、あたしは豊さんたちと話すことは、嫌ではないけれど普通だった。別にこの人が別の人にすげ代わっても、あたしは大して気にも留めないだろう、くらいに考えていた。
豊さんの家に行ったこともある。あたしは家がかなり広くて、そしてものがほとんどなく殺風景だったことを覚えている。豊さんは表上は肉体労働者なのだけど、実はこっそり株をやっていて、それでかなりの貯金があるのだと話してくれた。家には大きいモニターなんかがいくつもあって、あたしはふうんと思ってそれを聞いていた。「みんなには言うなよ」と豊さんが口留めしてきたこともあたしにはいまいちぴんと来なくて、別に稼いでいることなんて自信持って言ったらいいじゃんとしか思わなかったんだけど、豊さんは君にだけ言うんだ、という体で色々なことを話してくれた。
色々なこととしかあたしがそれを表現できないのは、あたしがその話に特に関心がなかったから。平坦だし、話に起伏が全然なくて、なだらかで、まるで優しそうな豊さんの表情そのものを現しているみたいにも思えたから、あたしは「いいね」とか相槌を打った気がするけれど、豊さんはあたしが反応してくれるそのこと自体が凄く嬉しそうで、嬉しそうだったから退屈だった。この人はあたしのことを何だと思っているんだろう、くらいに率直に思った。
ある時、いつものように豊さんにドライブに誘われた。豊さんは真っ赤の車に乗っていて、それが高いとか安いとか気付く人は気付くんだろうけどあたしには全く興味がなくて、でも赤い車っていいなって思った。黒か白しかなかったら、赤を選びたくなる気持ちはわかるし、それが豊さんと全くと言っていいほど結びつかないところもなんかよくて、似合ってないなあって思いながら「かっこいいね」と彼に伝えた。
その日は結構長居をして、夕方くらいに会ったのにも関わらず、解散したのは翌日の早朝だった。なぜそんなことになったかと言うと、豊さんはあたしを海に連れて行ったから。しかも真夜中の、誰もいない内灘海岸に、わざわざあたしを助手席に乗せてドライブした。浜に着いても豊さんはなにかしてくる様子もなく、ただ車のエンジンを止めて、車内にはBGMも流れていなかったから、凄く静かな空間の中、波の音だけが聴こえてくる状態だった。
あたしは豊さんとその時も色々話したはずなんだけど、豊さんの話にあたしはなんの興味も抱けなかったから適当に相槌を打っていたし、でもこの空間が、なんらかの目的を持って演出されたものだということはあたしは気付いていた。豊さんは身の上話をした。子供の頃に苦労をしたこと、年老いた親の面倒を必死に見なければいけないと覚悟していること、あとは……なんかドラマでよく聞くようなかったるい台詞みたいなことも言っていたっけ。でもあたしはそんなことよりも、あたしが言った言葉に豊さんが反応したことの方が記憶に残っている。
「父子家庭ですか?」
あたしはそう尋ねた。豊さんははっとした表情で、「なんでわかったの」とあたしに尋ねた。
「いや、たぶん両親揃ってる人ってそんな風に考えないと思って」
それを聞いた豊さんはなんだか放心状態というか、静かに海の方に視線を移して、それからバックシートに全身を預けながら、なにかを考えていた。口に手を当てて、考えていた。それがなんだったのかはあたしの知る由もないんだけれど、考えていた。豊さんはおもむろに、「手、握っていい?」とあたしに聞いた。
別に嫌じゃなかったから手を握ってもらった。握った手がじんわり汗ばんでいく最中も、豊さんはなにも喋らなかった。あたしもあたしで、なんにも言わなかったし、ただ波の打ち付ける音だけがざあざあと余韻をもたらし、あたしは当時好きだった片思いしていた子と、こうなりたかったのになあとか強く思った。
その日以来、あたしは豊さんと過ごした記憶があんまりなくて、豊さんは店に顔を出さなくなったし、あたしも就活の時期で忙しくなったのもあってバイトを休みがちになった。ある時に知り合いから、「好きだったらしいぞ」という話を聴いた。
そうなんだ、って思った。だったら早めにそう言えばいいのに。でもあたしはそれを直接言われていないし、言われていないから返事をする道理も特にないと思えた。心ごとどっかに持って行かれた気持ちだったのかな、ってぼんやりと思ったりもしたけれど、あたしははっきりと言われないことに対してはっきりとは返さないようにしていたから、まあどっこいだったんでしょとか思った。
それはそうとして、あたしは肉体労働者の人たちの話は印象的に覚えている。彼らは本当に毎日身体を酷使するから、無駄な脂肪がなく、筋骨も隆々で、みなぎっているエネルギーが全然違うのだ。割れた腹筋を見せてくる後輩に、豊さんが「こいつ面白いだろ」と笑顔を振りまいてきたときも、あたしはなんで腹筋がそんなにバキバキなのか理解ができず、特に笑えなかったし、一応お客さんだから愛想笑いだけはしていたんだけど、それでも豊さんがあたしのこういう内面に気付けるような人ではないと勘づいていたから、あたしたちの関係は薄気味悪かった。その異物感を、『恋』と錯覚したのが豊さんの悲劇だったのかなんて、別に分析したいわけでもないけれど。
でも家具が運ばれるあの時、豊さんのことをちょっとだけ思い出したりした。ほんのりと汗の匂いがする引っ越し業者の身体からは、なんというかあたしが捨ててきた全てが詰まっているようなきらめきがあって、それは普通に不快な匂いなんだけど、でもきっとあたしが『男』として生きることを決めていたら、あんな風にきらきらした排泄物にもきっと純情とかをダイレクトに醸せたのだろうし、仲間内で楽しく青春ごっこだって出来たのかもしれないなんて、そんな匂いに憧れみたいな気持ちを抱くことはあって、
もちもちのプリン、固くて怖いナイフ。混ざり合わないもの同士は役に立つという理由だけで同じ机に並べられる。気持ちだけ横に置いておかれたもちもちの空間の、鋭い方が強引に横を押し当てて、ピストン運動をする。ぐいぐいと、やあやあとナイフが柔肌を擦ったら、そこからぽろりと気持ちが『搬入』されてきて、どっこいしょと合体する。
恋のメカニズムをあたしが説明するならこんな感じなんだけれど、あたしは恋にうんざりしているし、振り回されることよりも自分が振り回すことに大層感動的な潤いを感じてしまったから、たぶんもう豊さんみたいな気持ちになることはないんだと思うけれど、あんな風にバイセクシャルを気取って、でも男のあたしに恋をして、それでゲイのおじさんたちに「好きだった」とか影で言うしかない情けない男もどきの純情に、あたしがなにかしてあげられることとか別になくて、
そう言えばあたしは東京に来てから一度整体に言った。目白にある、ひっそりとしたイケメンばかり居ると噂の整体。あたしは当時仲が良かったゲイの友達からの評判を聞いて、忍び足差し足でそそくさとその整体に出向き、極上の体験をさせてもらった。本当にイケメンばかりで、三代目ジェイソウルブラ”ジャ”ーズ的ないかつい男に、いかにも恋愛慣れしてますって感じの浅黒い肌に白い歯がきれいなダンディ。焼けてない白い肌に中性的な髪形が少しギャップを醸しているでも身体はものごっつうバリでかい塩顔イケメン。宝石箱みたいで、あたしはどれにしようかななんて待合室で考えていたけれど、指名制じゃないことに気づいて落胆した。整体ってそういう店じゃないんだ。
あたしは浅黒い肌の金髪を短く刈り上げたダンディイケメンに奉仕された。奉仕っつっても整体だから、そんなあはんうふふなことはもちろんなかったし、なんなら終わった後に身体中が整えられた感覚が凄すぎて、「整体、すごっ」とその後友達に吹聴して回った。でもお金がえぐい掛かったから一回言ったきり二度と行かなかったんだけど。
あたしはイケメンにかなり至近距離で声を掛けられた。「足、持ち上げられますか?」あたしはかひゅっくらいの生返事をしながら、イケメンの言う通りに足を上げた。「そうそう、もうちょっと姿勢横にできますか?」はいぃと弱弱しい雌の声が出る。イケメンは「じゃあ、体重掛けますんで。結構音なるんですけど気持ちいいですよ」と言い、あたしの足の上にお腹を乗せた。
ぽきっ。
あっさりとあたしは恋に落ちた。えっ、好きじゃん……ずるじゃんとしか思わなかったし、背中の違和感はあっさりと解消され、イケメンは「すごいでしょ?これ皆さん驚くんですよ」とハンサムな笑顔を振りまいていた。あたしはもうメロメロで、ずっこんばっこんで、魂が、もうめちゃくちゃにしてとしか思えて居なかったし、その後もイケメンの言う通りに動作し、重みを掛けられ、時にはキスされるくらいの至近距離まで顔が近付いたりして、もうそれどころではなかった。整体ってハレンチじゃん!やだ。イケメンは生きてるだけで性犯罪ってことにしてください。エッチなのはいけないと思います。
それでメロメロの頭でイケメンの話をうんうん聞いた。「お兄さん、運動やってますか?」やってないですぅ……とタラちゃんみたいな声が零れた。「運動、いいっすよ。身体動かすとやっぱり心地いいっつうか、張りが出ますよね。お兄さんもせっかく身長高いんだし、バスケとかどうっすか。おれこの近所にいいジム知ってるんで、紹介できますよ。身体鍛えたら絶対、超モテますよ」はいぃ……とイクラちゃんみたいな声が出た。その日は三千円くらいの料金を払った。「まあ毎週来るのはお金がかかるんで、隔週くらいがいいと思いますよ。整体通うと身体整うんで。やっぱり一回だけってなるとどうしてもね、また鈍るんで。またお待ちしてます。ポイント付くんで、ぜひまたいらしてください」放心状態で店内を出て、それから「運動しよう」と決意した。もちろん一回も運動することはなかった。