昔幾何学構成の絵画にハマったことがあって、具体的に言うとカンディンスキー、モンドリアンの絵画にハマった。ハマった理由はシンプルに飽きていたからで、それまで僕はpixivでケモホモの絵ばかりを描いていたし、描けばそれなりに見て貰えていたけれど、なんていうか界隈特有の狭みが僕には窮屈に感じられて、単に萌えをやるだけならノンケが美少女描いたり、腐女子が美青年を描いたりする方がよほど分母が大きい分有利というか、セクシャルマイノリティになればなるほど萌えが機能しないというか、大衆娯楽としてきれいなものを作るって言う行為は要は大衆、視聴者側に重きが置かれたものであり、作り手側はそれをわかっていて楽をしている(これは一次創作、二次創作における悩みとも合致する話だけど)と僕には思えて、楽をする分必ずと言っていいほど分母の話になる。要は需要がある分までしか評価は上がらないということだ。需要がないジャンルを描けば、それがどれだけの力を持って書かれた技術の結晶だったとしても人からの評価は大きくならない。なぜならそのジャンルに人は興味がないからで、なによりも絵の技術なんてものを気にする人はごくわずかなのだ。多くの人は合っていればそれでいいと思っている。大体合っていて、邪魔しなくて、自分を脅かしてこない、それでいてそれなりのきらきらがあって、考え無しにも目に飛び込んでくるもの、そして最後にそれが自分が興味のあるジャンルであればすぐにいいねする、というのが萌えの消費者的側面だけど。
それに嫌気が差して、まあ嫌って言っても僕は萌えのほんの触りくらいしか履修しなかったし、萌えだってとことん突き詰めれば面白くなる気もしなくもない……ないか。ないけど、ないなりに面白いものだったからもうちょっとくらいやってもよかったのかなと思う時はあったんだけど、僕にとってのケモホモは、あくまで視聴者がどれくらいのところまでに興味を示すかのセンサーを測るためだけに存在していて、別に極めるものじゃなかったんだと思う。言い訳だけど、世の中は言い訳でもいいわけで、実際僕は大衆娯楽としての萌えよりもアカデミックな美術の世界に反応した。そっちの方がなんかありそうって思ったのだ。
当時のpixivには、メインストリームである萌えや、ゲームイラスト的な美麗のジャンルなどが隆盛していて、それ以外には目ぼしいものはない、と思われがちだけれど実はそんなことはなくて、どんなところにでも大きくなった箱にはサブカルが発生するわけで、サブカルチャーがあった。これは僕が観測する範囲でのサブカルだから、みなが共通して思うサブカルとは若干姿形が違うかもしれないけれど、姿形に囚われ続ける人は萌えだけ見ていればいいと思う。そうじゃなくて、文脈。文脈としてやっぱりサブカルの兆しというのは当時のpixivにも僅かながら存在した。
今でこそ若手アニメ作家の大御所に位置しているけれど、当時久野揺子さんってまさにそんな感じの人だった。あの人は多摩美術大学のグラフィックを卒業して、卒業制作の『Airy Me』のミュージックビデオを作り、それが個人制作でしかも学生の作ったものにしては余りにも凄まじい出来だったから一躍有名になり、それからの活動は私はほとんど追ってはいなかったのだけど、斬新だった。才能の塊を見せ付けられたみたいな、膝を打つような感覚が『Airy Me』を観た時の私を覆った。
他にも立て続けに多摩美のグラフィック専攻の人たちが出した個人制作アニメがヒットを続ける快進撃があった。ぬQさんの『ニュ~東京音頭』はあまりにも有名だし、ヤマダリョージさんのビターな作風の卒制も、姫田真武お兄さんの腰が抜けるくらいに風変りなおシャツソングも、冠木佐和子さんのハレンチな美学たっぷりの全裸女性の猛攻も、全部が輝いていた。あまりにも先駆者たちが凄すぎて霞んでいるけれど、あの当時のタマグラアニメはどう考えても黄金世代だ。連載陣が凄すぎて中堅漫画ですら超ヒット作品、という感覚が全然タマグラ関係ない私から見てもあったし、もっと前には伝説的な近藤聡乃さんも排出されていたりするのだけど、まあなんていうか思い出すたびに屈辱を感じる。私が勝てる要素は一つもなかった。あの当時、あの熱量で個人であれだけの作品を制作していた東京の人間達に、私が勝てる要素は一ミリもなかったと思う。
その中でもとりわけ、久野揺子さんとぬQさんは私が心酔していたアーティストで、多大な影響を受けた。なぜならお二人とも、pixivをやっていたからだ。それもついでにとかではなく、がっつりpixivで人気絵描きとしてデイリーランキングに入って居たりしたものだから、私はそれも相まって勝手にシンパシーを感じていた。けれど私の当時のジャンルはケモホモだったし、彼女らの制作スタイルは完全にアートだ。アートの領域に居る人たちに少しでも近づくために必死になって手がかりを探していた。
辿り着いたのが抽象画だった。抽象画の持つ独自の味わいは、なんとも形容しがたく、村上春樹のジャズ愛くらいには知らん人が聴いたら胡散臭く思えるほどの、気配っぽい趣きが私は好きで、特にカンディンスキーのあばれっぷりには感動を示した。線が躍動している。ただ線は細長い長方形という形でしかないはずなのに、それらの組み合わせが余りにも常人離れしすぎており、掴みとれなかった。当たり前だ、カンディンスキーの知の結晶なのだから。私は抽象絵画という具象から離れたものの世界の虜になり、いつの間にか美大に進学した後もそれなりに抽象絵画にチャレンジしてみたりした。けれど、難しかった。私の絵の能力は具象を突き詰めてしまったものだから、抽象に不安しかなかった。線の配置、これでいいのかな……って悩みながら描くカンディンスキーがいたら嫌だろう。それなのに私は悩みあぐねいて線や形を配置することを『正しい』と思い込んでいた。とにかく不器用な学生で、自分の感覚を信じていなかった。それだから就活も派手に失敗するし、なんなら私は絵を描くこと自体を辞めてしまうのだけど、それでもあの当時、苦い経験を沢山してきたことは今のスタイルと細い線で繋がっている気がする。それこそジョアンミロのあどけなさのように、細いもので。
抽象絵画を頑張ったとしても、私ができるのは結局具象、具象しかできないのなら私のセクシャルマイノリティという定めに置いて、必然的に分母は限られる。ならば好きなものよりも需要のあるものを描くといういわゆる同人ゴロになることだって選択肢の内の一つとしてはあったし、なんならちょっとやろうと試みたりもしたのだけど、結局私は傲慢だった。酷く不遜で、魂が削られるような極太空間、眉毛がすっごい太い猫みたいな傲慢さが私の腹の中でつもりにつもって爆発寸前だった。それなのに手は一切動かさなかったから私はどうなったのかと言うと……爆発した。文字通り、ぼかんって破裂して、わけわからんことを言うようになった。そう、『発狂』である。
発狂する人って見たことあるだろうか。私は何度か経験しているから人間が発狂することがどういう状態なのかを説明できるのだけど、あれは狂ったことを呟き続けるという外的現象というよりも、もっと内的な、圧迫感のことなのだ。破裂と先ほども申し上げたように、心の中にたまっていったあり得ないものたちが、行き場がなくパンパンに膨れ上がった水風船の状態の心に、針のような刺激──これを社会的なストレスと私は表現するけれど──が与えられたらどうなるだろうか。そう、割れる。割れて、それまで溜まっていたものが噴出する。それはきれいな飛沫なんかではなくもっとおぞましい、悪魔のささやきそのものが自分の身体からあふれ出てきて止められなくなる。
口から吐く言葉を自分でコントロールできない感覚になることは、かなりの恐怖であり私はなに言ってるかもわからない自分の言動に、自分で解離した。なんかもういいやと思ったのだ。私は鬱屈とした気持ちを抱えないために必死に手を動かせばよかったのにそれをしなかった。しなかったものだから気持ちが腐ってガスが溜まり内側から噴出した。それが私が支離滅裂な駄作を何度も作る原因になったし、あれは通過儀礼なのだろう。というよりは、pixivで好きなケモホモばかり描いていた時には内圧がなかった。ないものだから、常になにかに飢えて必死だった。それはいいね数とかブックマーク数とか閲覧とか、今思うと完璧にくだらないネットのお遊びの評価なのにも関わらず、当時の私はそれが生き血に思えるくらいに渇望し、執着した。離せなかったからしがみついていたら、美大に行ったときに『作るものがない』という謎の感覚に陥った。テーマに対して、なにか答えたいことがないのだ。なんなら、それすらも外から借りるものだと思っていたくらいに、私は出力することに飽き飽きしていた。出力はもういいやと思った。内圧がないなら貯めればいいじゃないか、そう思って人間として生きることに活路を見出そうとしていた。
人間として生きることには多大なストレスが付きまとう。それはうまく行かない恋愛であったり、評価されない自分の作品だったり、とにかくありえないくらいに多くの情報の海に溺れることが人間として生きるということであり、多くの人はそれらをフィルタリングしていると思うのだけど、私はその機能が上手く働いていないらしく、情報がそのまま流れ込んできた。きたものだから、そのまま受け止め、反芻した。そして内圧が元よりない人間なのが災い《功を奏》して、私は自分の判断よりも人の判断に忠実に行動するようになった。
錯乱状態、軽く眩暈がする逸脱、そんな彷徨える魂になった私は、たぶん世間でいうところのメンヘラだったのだろうし、あるいは才能のないクリエイターだったのかもしれないし、あるいはヤバい人、なんか物騒なことを突然言い始める人、みたいなものだったのかもしれないし、いうなれば軽んじられていた。人は不思議なもので、自分の言う通りに行動してくれる人のことを邪険に扱う。逆に思い通りにならないものを崇拝する。私は当時、と言っても今それは過去だから逆説的に時間のレイヤーは存在しないと仮定するけれど、当時、私は他人のクリエイティブを実行するただの機械だった。あれほど欲した内圧を得るための行動をせずに、また出力装置としての自分に価値を見出そうとしていた。それはおろかすぎる行動だし、通りで作るものみな駄作になるわ、他人には舐められまくるわで、良いことがなかった。ないし、不愉快で許せないって思う日々が続いたけれど、私には見返すほどの実績がなく、かと言って周りと同じように行動できる自分が居るとも思えなかった。
なんなのだろう、と思った。私はなんでこんなに頑なに、思い通りにならないのだろう。操作している別の誰かが居るくらいには自分の身体性を呪った。
けれど愉快さはやっぱり生きている限りはどこかしらにはあって、あるから死んだりはできず、死ねないから生きているというかろうじての見本、みたいなものが当時の私であり、それは他人に買い被られるような価値のあるものでは決してないにしろ、ないなりの生き方は楽しかった。けれど楽しいだけではどうにもならず、もっと楽しいこと、楽しいことを渇望して、渇望するがあまり唇や爪などから出血を繰り返し、歯茎だけで笑っていた。まるで植松被告が獄中で描いたイラストのように、物騒な笑みを振りまいていた。私は認められたい人がやる方程式は死んでもやらないくせに、己の美学を突き詰めて作ることもしない、『審美』が疑わしい人だった。それが道理となるはずのものを駆逐する定めに、明け方の夜を知ったのはつい最近のことで、唐突に現れるオムツを履いた猫さん、ぶっ飛んで邪な魂は輪郭を削ぎ落す、愉快なパレードの序章に狂った明日を迎えて、迎えて、私とはなにか?を考えるにあたって必要な必要性そのものに懐疑的姿勢を示し、示したから獄中結婚、死神の方が神より魅力的で、溢れる腹黒さにパニックワールド臨界点突破!魂って楽しい!痛烈に不愉快、面白くて情けなくって、あああどけないジョアンミロの描いた子供が踊る。あれは子供だったのか老成した子供だったのか世間を知らない無垢な大人だったのか、広々とした手足にブルーが痛快で、真っ青な唇って奇妙だけど、奇妙なりの探求の結果で、暴れる気持ちはいつだってここにあって、私は私のためにいつも通りに行動する、そのことがつんのめった体躯に宿る一線の光、光かもしれないと思うつぶさに感情的な慟哭を知る冬の朝。
だけどそんな風に容易く精神世界を嘔吐できるならば夢だって叶うはずもない夢物語で、萌え絵の瞳を再構築したがる芸術学生が見落としがちな真実、それは手に取りやすいところに真実はないという当たり前の出来事で、当たり前だから割れた、とめどなく噴出を始める、息、図体のでかいサイがコンクリートブロックを破壊する、催す火蓋は『大人』の私が悪い子だから?だから君たちは面白おかしく人の様子を伺って、人を見て人を描くのか。具象に抽象が叶わない理由はただ一つ、真実、それそのものが面白くないものだからで、不愉快なものだからで、生き方を否定されるような悪しきものに一見思えるものだからで、だとしても真実はいつもクリオネの姿をしている。ジョアンミロの描いた絵画のように、あどけなさとは恐怖そのものであり、それがごく一般的な抽象絵画として世間に陳列されている今、今が、かなり悪夢的だと私は思うわけで、それは極悪人として名高い死刑囚が最期に感じる情景となんら遜色のない重厚な悲鳴みたいなもので、だからどうしたって言うのだ。悲鳴は悲鳴だろう?君は鶏肉を食べる度にわざわざ締め落とされた鶏の最後の断末魔を想像するのか?しないよな。しないならお前は敵だし、するならおれの味方だっつうそれだけの話で、話だからここにあんだよ。逸脱だよ、空気だよ。おれは魂が張り裂けた隙間から腕を伸ばす紫色の悪魔。
だからおれはお前らの欺瞞を許さないし、飢えていた当時の自分の感覚こそ正しかったと思うよ。理屈じゃなくて、先駆けていたというそれだけの話で、それだけならばおれは明日も生きていられる。全員に小便ぶっかけて血潮でパテを作るくらいには物騒な、態度そのものがおれの魂だったとしても、たまゆらはここにあんだよ。言わしめてやれよ、混濁しろよ、パーリィナイトに今夜も踊れよ。踊って、五角形の鏡にちりばめられた自分の姿に催せよ。背中摩ってやるし、お前はいつまでもお前だからな。おれは社会に殺された悪魔かもしんねえけど、お前が内蔵を口から零すその姿は破廉恥だって認めてやるよ。
生きて、生きてから死ね。その審美眼が滅びで失明したとしても、生きてから死ぬとか言え。言って、言ったなら死ね。何度も死ね。呼吸を忘れるくらいに死ね。思いがけず転べ。手足をなくしてみろ。そうして初めておれはおれとして呼吸ができるし、おれを塞ぎこんでいた全ての悪意に対して、なっさけねえ面で「マイハニー」とか呼んでやるからよ。だからおれの話を聴けよ、そこで、胴体だけで虫みたくもがくお前の鼻と口を塞いで数分待ってやるからよお。そしたらお前もおれみたく内圧がぱんぱんに膨れ上がるはずだ。そうして巨人のちんぽに取り付けられた巨大なコンドームの先端さながら、膨れ上がった精液はどこに行くんだろうな?耳か?尻か?おれはお前の破裂しそうな身体を思い切り踏み付けて、ケツに極太のディルドを差し込んでやるからよお、そこで醜く踊れ。抜き、差し、抜き、差し、差し、差して、差して、差しっぱなしで、腕ごと直腸に入り込んでS字結腸を縦にぶった切って熱いジュースに塗れた腕がお前の胃、食道、脳髄全てを鷲掴みにしてやったら初めて、お前はお前という明るみにスタートできて、おれはそれを『結婚式』だと思えばいい。思って、参列する花婿が実は死体でした、なんて使い古された記述トリックすらもマジックリアリズムに昇華して、祈ってやるよ。おれの糞便と血と髄液に塗れた高々と突き上げられた腕にまとわりつくごみを肩で払って、おれは豪奢な晩餐にでも出席する。そこではおれはしおらしく、丁寧なテーブルマナーに身を潜めて、また内圧を高める準備をするからよお。絶景だろ?夢ってそんな簡単に敵わねえから。苦労人の苦労がスープになったビシソワーズから、まず最初に頂こうか。それでおれは前菜のサラダを飛ばして、お前の肉という頬肉のソテーを堪能するからよお。パスタ?あんなクソ不味い料理だれが好んで食べんの?あっデザート、それは絶対に要る。