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生活

生活がずっとなくて、ないからないなりの生活を送っていて、生活がないということと生活を送れているというのは両立する事象なのだ。なぜか。それを説明しようとしても私には生活それそのものが欠落の証明であり、なまじ直視したくないものであり、ないからないと言っていた、というないの使い分けがただ違うだけ、と思われても仕方のないことに起因するなにか。私は生活感のなさがある意味意味に生きている人なのだという認識にすげ代わった。意味に生きていたのだ、私は。意味が生活の寝床だから、生活は生活拠点でもなんでもなくなったというそんなこんなの事情だったわけで、そんなだから私は生活感のなさが逆におしゃれに見えるという奇妙な現象に悩まされており、実際は大変に生活に困っていらっしゃる低所得者だったとしても、生活そのものが『ない』ゆえに、困っていることも表現できないという変な境地に至ることもあった。逆説的にだけど、生活がない。たぶんだけど人と比べていて、ある意味模範的な人の生活像からは私はかなり逸脱していたのだろうし、魂ごとぼろんと出ていたのだとも思う。けれども結構高いものは買うし、ソシャゲに何万も溶かすし、溶かすものだから親に金の無心をするし、してその場ではしおらしい態度を見せる癖にそのことを全然反省しないし、しないから私はなんていうか『落伍者』だった。人生ドロップアウトも視野に入れざるを得ないというか、実際に今の私がドロップアウトした姿なのかと言わればまあそうだよなと思わざるを得ないわけで、大企業にストレートで入社するような人からすれば私の人生は既に終わっているというか、血みどろというか、受信料の手紙もぼろんとごみ箱に放り投げる始末。よって赤裸々に亡霊だと思っていて、たぶんだけど私は可哀想な亡霊だ。だからこういう状況に至っている。

 

生活がないことはつまりその分だけの意味を考える時間があるということで、精神的体力があるということで、つまりは可処分時間の確保のため、というならば私の行動は理にかなっている。現に私は毎日の行動を全てルーティン化している。起きる時間、寝る時間、食べるもののパターン、歩く場所、どこの角を曲がるか、誰にどのように挨拶するか、仕事中の姿勢の許せる範囲、暴れまわるピュアな感性との向き合い方、頑張らないことだけが一貫している今のスタイル、そればかりが面白く、私は毎日全然別のことを考えながら過ごしている。全く、違うことを考え続けている。

 

「なにをそんなに考えているの?」

 

と上司に言われたこともあるが、私は全く回答ができず、頓珍漢なことを言ってしまい、その空気の澱み方は今でも覚えている。なんだろう……なんか宇宙の裏側のこととか考えているんですよ。

 

ぽかんとする上司の表情の中に、絶対にわかりあえないという人間の性なるものを感じ取って、私は少しばかりぐすっと来てしまったのだけど、それすらも上司と折り合いがつかない普通の平社員、という見方をされればそれまでの話で、自分の行動にすぐに他から矢が飛んでくる感覚って生きてたら全然あるというか、ありすぎて、それだけが唯一の『ある』ことなんじゃないかって疑うくらいにこの世は『ある』で満たされたプールみたいなもので、平気で泳いでいられる感覚。私は『在る』がある海でぷかぷか泳いでいるのだ。浮かんでいるのか、沈んでいるのか。考えるという行為は水掻きに似ており、言わばバタ足だ。考えることでなにかしらの推進力を得ている。それでどこに行きたいの?って仮に上司に言われたとしても、一切答えようがない。だって、バタ足をしたいだけなのだから。別に意味とかそういうんじゃないから。いや意味に生きてるんだけどね?でもその意味じゃなくて。

 

あわわロボって知ってるだろうか。あわわ、あわわ……としか言うことができない、という設計をされたなんの役にも立たないロボットのことなんだけど、それがもの凄く可愛い。SNS上でバズった時にも私は一目見て欲しいと思ったし、毎日愛でたくなるくらいにかわいさが詰まった、まさにかわいいだけでなんの役にも立たないロボットがあわわロボなのだけど、開発者によるとそれは意図的にそうなされたものらしい。

 

役に立つことって、なんかすごい必要そうに思えるけど重視されすぎというか、役に立つ立たないを先行してものを考えることそれ自体は他の人の事情だから別にいいのだけど、特に美しくも面白くもない、役に立つという目的で作られてしまったもの。それらが生まれるに至った経緯などを考えると私は寒い気持ちが走る。確かに一定のすごみはあるものの、「そんなか?」とどこかで言いたくなる私の気持ちは確実に存在していて、それはバベルの塔を見ている。建設現場のような感覚で、それらを見ている。建設会社のCМが一斉にポスト君の名は。みたいな情景を描くようになったのもなんだか不穏さを感じてしまって、そうするほかない感じがひしひしと伝わって来るというか、あわわロボを見ている方がいい。建設的じゃない。私はそれらにそう感じてしまえるし、頑張ることって生きることに全然無関係だよなと思う。無関係はおろか、頑張って生きている人というのはどこかで狂った魂を健全に見えるように隠しているとさえ思う。

 

狂った魂は私も持っているし、持ってない人は居ないと思うけれど、どっかに狂気的な自分というのは存在していて、それは明後日の角度から自分をぺきぺきと折り込む急角度でのソリッドな圧力、という風に私は認知しているけれど、実際それが邪なものであったとしても、態度は一過性というか、失格というか、私は行き場として広めの陸上競技上を用意しているというだけなのだ。この子たちが楽しく遊べる場所を確保しなきゃ、ということに割と必死で、自分のことで今更『頑張る』とかないのだ。自分のことで頑張っている人は、要するに暇なんだと思う。暇だし、他者をできれば平気で脅かしたいと思っている。平穏なんて望んでいない。だからそんなにご立派に金とか稼いでいるんでしょ?と思う。

 

頑張った行く末にあるものが自分のテリトリーだと混同して生きていきたくはなくて、どうぞご勝手にと嘆かれることもまあ、我慢して噛みしめる気持ちはやっぱりあるけれど、私はそもそもで広い陸上競技場を用意したいだけだから。テニスコート、あるいは市民プールなどを借りるのに精いっぱいなわけで、頭の中は申し込み用紙の記入欄でいっぱいなわけで、そんな中で他人からの声まで気にしなければならない、というのはかなり気の滅入ることで、そもそもで配慮が出来る人と言うのは他人のことをどうでもいいと思っている。配慮、なんてものを意識的に行える人は他人が自分よりも下、あるいは取るに足らない存在だと思っていてそれを無意識のレベルで実行しているから。配慮というのは全く行き届いていない形のことなのだ。本当に配慮ができているのなら配慮されているということにすら気付かない。そう感じるからこそ私は配慮を意識的にしたくないと思っていて、なるべくなら自分のために使いたい。自分の中の考えに出来る限りのリソースを割いてあげたい。その計らいから私は日々の生活をルーティン化している。別のことだけを考えていても人間はなぜか生きられてしまうから、それがかなり不思議な瞑想感を私にもたらしている。

 

「地面から一センチ浮いている」

 

友達に前にそう言われた。他の人は地面と平行に立っているのに、私は傍から見ると少しだけ浮いているように見えるらしい。言われてもそんなに驚かなくて、そうだよなって思った。だってこれだけ別のことを考え続けて生きているから、私はテレビや動画の類、あとはSNSもあまり見なくなっているし、本当に考え事、それだけをしながら毎日同じ景色の中で少しずつ変化する日常を見ている。見ていると言っても、見てはいなくて、見えているものは確かにあるけれどどこにも焦点があっていないというような、なんだか『ずれた』感覚こそが私に通底していて。

 

そんな中で最近、「生活を手に入れた」と思う現象があった。それは私が長年住んだごみ屋敷を追い出され、住みたい街に住めるようになってからのこと。新しい家に行くときに古い家具は全て置いてきたので、私は心機一転真っ新な状態で新生活を始めることになった。

 

ドハマりした。家具、超面白くて、アンティークやヴィンテージものの奥ゆかしさの虜になった。えっ本棚の耐久年数って数百年もあるの?とか、えっ家の明かりってルームライトだけでいいんじゃないの?フロアランプって何?とか。本当に未知で、全てが新しかったから私はインスタで飽きるほどに通販サイトを眺めたし、浴びるように情報を摂取した。なにが面白いかって、買えるのだ。アンティークも、ヴィンテージも、高いが買えない値段では案外なく、もちろん上を見ればきりがないのだけど、上を見なければ手ごろなものはいくらでもある。例えばインスタにはきれいなアートやかわいいイラストなんかがよく流れてくるけれど、ああいうの見てても手に入った感じがせず、いいでしょ?ってちょっと自慢されている気にもなって、体験としてというよりはただの優劣、のように勘ぐってしまう。けれど家具はそうではなくて、取引だ。かなり具体的な行いがあり、ある意味ネゴシエーターのような緊張感があり、だって実際に本棚に六万とか高いし。シングルソファに十万とか高いし。買うわけない、で終わりなら私にもみんなが思うような生活観が手に入っていたのだと思われるけど、私はギャンブルのようにインスタを眺めていた。挑発というか、ほらこれこんなに魅力的だろう?今だけだぞ?これを逃したら他の人に取られるぞ?という煽りを熱烈に受ける感覚があった。

 

買った。買いに買って、おかげでソシャゲに課金しなくなった。ソシャゲと比べて家具の良いところは手元に残ること、なんて私が「ソシャゲ辞めれば?」と友達にアドバイスを受けている時には一切聞き入れなかったことなのに、なぜか別方向の存在である家具からそれらを教えて貰った。家具、最高。ずっと使えるし、サ終しない。煽られ続けることもないし、一度手に入ったら基本的にはずっと私のものとして側にいる。この安心に包まれる感覚がたぶん『生活』のコアなのだろう。私は欠落こそが生活の全てだった人なので、その欠けた部分に家具が埋められていくことで、家具が好きな風変りな人、言う風に自分を俯瞰することができたし、前まではよくわからん怪しい人、で終わっていたものが好きな街に住むことで、愉快なバージョンアップを遂げた感覚だった。

 

でもインスタの空気はやっぱり苦手だ。私は家具の素晴らしさを知ったし、家具の持つ魅力や歴史の深さに対してお金を使い、現実を大切に生きる人たちが『尊い』とか言うことは別に全然否定しないけど、でも否定したくなる気持ちはあって、それはそういう風に見ればそういう風に見えるけれど、そう見ない人にとっては大層どうでもいい価値観だ。それなのに、受け入れられて当然、としている空気が充満している感じは家具を見る次いでにも嫌というほど目に飛び込んできたし、私はそれを「勘違いしてるな」と思った。

 

勘違い。それはしちゃだめとかそんなことは一切ないものだけれど、勘違いしていくことには独特の怖さがある。間違っていても間違いに気付けないことの恐怖、気付けないからこそ増大し、周りからの意見を取り入れなくなっていく怖さ。そんなものが私にもやっぱりあって、でも正しさなんてそう見ればそう感じられるというそれだけの話であり、そう見ていない人にとっては、どっちでもいいと思える類の曖昧なもので間違いはないんだけれど、私はいつも自分が間違っているのではないかという実感に駆られる。間違っていて、間違った道を進んでいて、それでも進むしかないような言い表せない怖い気持ちになる時がある。

 

後ろ指、見えている気もして、でもそれは普通の気持ちが普通で居られない時の唯一の『正気』であり、正気だけで生きていけるなら私もそうしたかったんだけど、どうやらあまりそれには期待できないようで、それは私のエゴと言われても仕方のないものの考え方に起因するものであり、それは他者から見てわかるものではないから、私はこの生活を手に入れた人格として、頑張ってそれをやっているのだと思うこともまた一つの正気で、狂気で、でもどちらにも良いところはあり、両方内包しているのだ。私は、あまり作為がないようにしているつもりが作為に塗れている自分に気付く、ということもよくあるので、それが普通と捉えればそうなんだけど……生活はアルゴリズムだから。人はルーティンワークの中に安寧を見出す生物で、それは概ねしらを切った普通の人、という皮を被っているだけで、実際は狂気だ。それがなんだか少しだけ私の周りを覆っている気がして、それがなんなのかはわからないにしても、今外を見られない自分は間違いなく居る。たぶん、底なしの狂気だ。これは演出ではなく、過剰な恐怖の根源になるものであり、私はそれが外に出ないように必死に『生活』を守っている。