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剥製

鴨の端、カモノハシの顔の感覚はかなり詰め詰めの関係値を示していて、葛根湯飲んで限りなくみなぎってきた括約筋を引き締め、感謝の心を忘れずに、描く、描く、描く。

 

3Bの鉛筆はざっと辺りを取るために使う丁度良い濃さで、2Bだと少し硬い。細くタッチを付ける時はそれを使い、鉛筆は芯がそんなに長く出ていていいの?と思うくらいにまでギラギラに、剥き出しになっており、触るだけで指に黒い跡が付く。付着した黒鉛の匂いは所謂ここが美術室であることを示しているし、そこたら中にある石膏像や、瓶、時計や果物の模型など、どこか暗澹たるムードを醸すそれらの質感は、私がつい眠くなってしまう美術館やつまらない午前中の番組などに雰囲気が似ていた。これはこれでいいんだよ、と伝わることを恐れるのであれば、それはか細いトレードマークに勇敢な戦士の情熱を掛け合わせたような、ある種のハイカルチャーであり、大して世の中は面白いものや美しいものがないのだけれど、それは『知り方』を知らないだけで、知り方がわかればのめり込めるようになっている。私はデッサンモチーフである鴨の模型を見つめて、手元の紙にすらすらと線を書き加えていく。

 

デッサンって踊りで、踊りながら描くとよいものができる。といっても裸でずんどこ奇声を上げながら四股を踏めとかそういう話ではなくて、心の状態だ。心が、常に躍動している感覚を持って描くとよくて、それは身体としてはただ、長時間カンバスの前に座ってモチーフとにらめっこするわけだから、傍から見て楽しいものでは全くない。けれど実際はモチーフにはモチーフらしさがあり、どこをどう書けばそれになるのか、逆に見えていても書いてはいけないものとはなんなのか。そういったことを考えながら描くわけで、必然的にデッサン中は言葉でいっぱいになる。無心?とんでもない。美術学生というのは白紙の紙が試験用紙なのだ。そこには透明なインクでたくさんの問題が書かれていて、それらを適切に回答、修正してやがては満点の描写を目指す、というテストなのだ。だから頭の中はフル回転するし、手はモチーフを捉える繊細さを持ち合わせていなければならないし、時折立って自分の描いたものが適切な構図に収まっているか、また形が狂っていないかなどを確認する。して、大量に思いが駆け巡る。ああ失敗だ、とか逆に最高の仕上がりになってきた、など興奮する自分の心を必死に抑え、また椅子に戻る。これの繰り返しの中で、心はダンスを踊っている。晴れやかに、時には力強く、惑星同士の衝突くらいには猛烈なエネルギーを放出しながら、目の前のモチーフを睨み潰していくのだ。

 

出来上がった鴨の『剥製』のデッサンを見て、私は我ながら上手く描けたと思った。若干構図が斜めに見えるものの、誤差は一ミリ程度。今から修正する気にもなれなかったのでこれはこれで良しとした。通算何枚目だろう?わからないくらいには描いていたし、案外最初の数枚目の内のどれかだったのかもしれない。

 

頭の中のアイデアは放っておくと腐るらしい。だから何を書いたか思い出せないくらいには書いて、書いて、書く方がいいのだと誰かが言っていた。私はそれは正しいと思えて、書く行為自体が長期スパンを経て一回高出力をするので留まってしまうと、慣性の法則が働かないというか、完璧主義に陥る。熱量を貯めて貯めて、放出というサイクルをするのであれば、多少その間に出力、例えば絵なら素描をするとか、文章なら日記を書くなど、なんらかの手の運動を試みた方が良いと思っていて、そうすることで余計な脂肪が心に付くのを防げる。私は先が見えているものを書くのも描くのも苦痛だし、だから書いている時はなにが出来上がるかを全くイメージできないまま書きながら都度イメージを膨らませる方が好きなのだけど、世の中には泥臭いものを観たくない人たちというのも大勢いて、そんな人たちにとっては私のような途中経過が割とそのままの形で並べられるタイプの制作スタイルは、客観的ではないと排斥されるものなのかもしれない。しれないっていうか、されている気がするからこう書いているのだけど、ただ書いている本人からすれば、書いたからには読まれたいとはやはり思っていて、思っているからこそ自分の『複製品』である作品、まあこの場合はブログなのだけど、ブログをマネキンみたいに並び建て続けているというのが現況なのだ。だから意図とかなくて、意図がないから目撃した人は「なにこれ?」としか思わない。動線がそこに敷かれていないから、どう読めばいいか、これは一体なんなのか、の説明を全て省いて書くだけ、書いて載せるだけ、のシンプルな文様がやっぱり読みにくいのかもしれなくて、私はそう思うとうーんと首を傾げるほかないのだけど。

 

読みにくくても、読めなくても、そこにあるということだけで神秘的なものというのは一定数存在する。ロダンの作った手の塑像や、地獄の門なんかは大きさも当然すごさの一つとしてカウントはされるけれど、小さな手一つですらなにか神妙な面持ちがあるというか、魔界の門を開くためにこの手の薬指に指輪を嵌めなければならない……なんてゲームチックな想像も抱くくらいには感動的で、私は彫刻の良さが全く分からない素人だけれども、例えばジャコメッティの細く伸ばされ続けた人がなにか深淵に辿り着いてしまっていることくらいはやはり伝わって来るというか、それはすぐにいいね!が付くようなものでは全くなくて、厳かでかつプリミティブな輝き、輝きとそれを訳すのはおかしいのかもしれないけれど、ある統一された思想から作られ続けたものたちというのは、そこに技術的な素晴らしさ以上に神的なものが宿る気がしていて、それを人は『芸術』だと思うのだけど。

 

私は昔からゲームをよくしていた。最近は『カービィのエアライド』の新作が出て盛り上がっているけれど、私は新作こそやっていないものの、ゲームキューブでリリースされた第一作はかなりのめり込んだ。エアライド、シティトライアル、ウエライドという三つの種目で構成されていて、シティトライアルなんかは周りの友達全員が好きなハチャメチャ具合だったし、エアライドもルールがシンプルなので面白い。シンプルが故に実力差が出過ぎてしまい、あまり友達とやることはなかったのだけど。一番不人気だったウエライドは私は意外と面白くプレイしていて、俯瞰視点(クォータービュー)の箱庭ゲームである『どうぶつの森』が好きなゲームだったからこそ、画面が動かないという安心がやっぱり良くて、シティトライアルほどのドタバタ感はないものの、ウエライドにも牽制・邪魔・出し抜きのような相手の足をいかに引っ張るか、というゲームの根底にある競争心を刺激する要素は一定数組み込まれており、私はドハマりした。最初の頃は友達と四人プレイをするのが楽しかったからそれで満足していたけれど、その内家でも独りでやるようになり、NPC三人と自分一人で戦う、ということに没頭していた。

 

NPCに強さは求めなかった。彼らはモブであり、別に役割としてはいて、それなりの動きをしてくれればそれで良く、私はNPCたちを蹴散らしながら毎回一位を取った。人間同士だとこうはいかないものの、NPCとだと基本負けることはないため、毎回圧倒的大差をつけて一位を取ることができ、それが気持ちよかった。『PUPB』で毎回ドン勝出来るのはとても気持ちがいいだろうし、そういう『お膳立て』された勝利であったとしても、誰にも責任が発生しない以上は遊びの範疇で楽しかった。私は負けたくなかった。負けるのが嫌だった。勝つこと以上に、負けることに楽しみを見出せなくて、得意なゲームだけを選んでやっていた。友達とは年齢を重ねるごとに疎遠になった。

 

当時NPCとして私を担ぎ上げてくれていたゲームの遊びは、いつしか現実的なものに変わっていき、私はカラオケにハマるようになった。カラオケも歌う人と聴く人がそれぞれいて、交互にマイクを渡し合うのが一般的だと思うけど、最近だと一人カラオケも熱いらしく、私も何度かプレイした。カラオケの良いところは、主役がマイクの持ち主に常に固定されるところで、それ以外の人たちは手拍子をしたり、歓声を上げたりなどで歌い手を盛り上げる。丁度『ボンバーマン』でやられた人が退場しても、ゴーストとしてお邪魔プレイができるみたいに、不透明なレイヤーで覆われたモブとしても、歌に参加できることは浅学ながら、小さなライブ会場なのではないかと思う。小さく、ライブのような躍動感を楽しむことができるのはカラオケの良いところで、別にバンド活動を始めなくても、料金さえ払えば歌手ごっこができる。ごっこでいいなら誰にも文句を言われることもない。楽しい遊びがカラオケであり、私はどうしても一対不特定多数という遊びが好きなようだった。主役は一人(or二人)、その他大勢の盛り上げ役、という遊びがどうしても好きだった。周りの人はいるだけで構わなかった。携帯いじられたり、歌っている時に別の話をされたりしてもかまわなかった。私だけは聴き手役をやるときもそういった『歌っている側がどう感じているか』という視点を捨てることがなかった。そんなの、ただ付き合いでカラオケに来ている人には関係のない話なんだけど、でもそうだった。

 

一対不特定多数の構造にならないもの、例えば会社の飲み会なんかは凄く苦手で、あれは誰かにスポットが当たっているわけではなく、全員が全員のことをフラットに意識しなければならないという気の抜けなさがあり、私は優しくないと感じる。だって、携帯弄りたい人だっているし、聴くよりも話したい人だって居る。服を脱ぎたい人だっているし、裸なんて見たくない人もいる。いるのに、それらが『様式美』として飲み会での『空気』に変換され、半ば強制されていく感じがゾッとするというか、遊びではないのだ、という気の抜けなさが、監視されている気を起こしてげんなりする。なぜ、業務時間でもないのに気を遣わなければならないのか理解に苦しむけれど、

 

デッサンもゲームもカラオケも、全て会社の飲み会とは異なる。甘さがあるというか、ルールがもっと明確であるというか、ゲームカラオケは比較的ルールがわかりやすく、娯楽を提供するシステムだという共通認識でみなが行くから、そこにげんなりとする空気が発生することは少ない。というよりはげんなりする空気とは基本的に行く人たちとの相性でしかないから、相性のいいひとと行けば無問題である。デッサンは娯楽でもなんでもなく、学問の一つではあるものの、私はこれに適正があったから、楽しめた。デッサンの目的とは『審美眼』を養うこと。そして『ものの見方』のトレーニングであるということ。手と目、両方ともが刺激されるこの活動に、私は『カービィのエアライド』をプレイしていた時の躍動感に近いものを感じ取れたし、カラオケで好きな歌を熱唱するときには、『喉』と『耳』が刺激される感覚があった。もしかしたら世の中には『鼻』を使う遊びも存在するのかもしれないけれど、私はまだそれを経験したことがない。つまり遊びというのには、ある感覚器官を活性化させるという意味合いがあり、それが人を楽しいという快楽状態に導くものだ。楽しくない娯楽は、誰もやらないから流行ることがない。

 

同じように人が集まる最中にも、楽しい、楽しくないという不気味なほどの断絶が生まれる理由について、私は支配者が人間か、そうでないかという分け方が出来ると思う。デッサンもゲームもカラオケも、支配者はシステムであり、人間ではない。しかし会社の飲み会は明確に支配者が人間である。かつ遊びだよと言われても全員がそれを信じていないという強制参加の磁力があり、その磁場に充てられてみんな言いたいことを言わない。言わない人が多いから、言わないことが様式美、という風にどんどんずれが生じる。

 

思えば、会社というのはごく僅かな大企業を除いて、ほとんどが別に本気でやりたいと思っている人たちではないわけで、ただ生きるために仕方なく会社に来ていますという人が大半なわけで、それに対して会社側がいくら息抜きとしての飲み会を開こうと逆効果になることはよく考えれば当然のことだ。お前のためだなんていう人間がその人のことを全く理解していないというのは世の常だけど、それと同じレベルで、『社員のためだ』なんて理想像を掲げて、独創性のかけらもない模範的な『飲み会』を提供している会社からは、「私たちはきちんと企業努力をしているだろう」という傲慢な資本主義の声を聴きとることができる。あの人たちは遊びを知らない。自然発生的な遊びがどれだけ人の心を豊かにし、感性を育むのかを全く知らないし、知ろうともしない。金を稼ぐのに必要なのは頭脳であり、感性(心)は必要ないと信じているかのように不気味だ。だから私はそんな人たちと遠く離れて心で生きていきたいと常々考えているのだけど……

 

現実は『剥製』である。まるでそのものが真実であるかのように形だけ整えられた刈り込まれた街路樹みたいに、これが本来の木の形ですと、街での遊びしか知らない人間が原始的な木の形が本来なのにも関わらず、原始の方を不気味とし、街で映えるように『造形』されたものが正しい姿だと誤認するのに近い、歪な社会構造がそこにあり、そういったものは常にいい顔をしている。ニコニコと、悪意なんてありませんよと言う顔で、美味しいもの、美しいもの、切ないもの、楽しいものを切り売りしている。けれど、それらは本来的に自然発生したものではないように私には思えて、人が集まり、なにかする。それそのものは誰の作為を受けるはずのない純粋な行為だったはず。けれどもいつの間にか手の内がすり替わっていて、義務感に捉えられる『仕事』に置き換わっている。私はこれを『大人』の遊びだと考え、私はいつまでも無垢な『子供』のままでいたいのだ。そのことに、後ろめたい気持ちはどこかにあるけれど、いくら叫んでも周りは大人になっていくばかりで、子供の心はどんどん失われつつある。そう考えると変わるべきは私なのであり、そこは疑いようのない事実だ。しかし、変わるために必要ないくつかの条件を私は満たせないままでいる。それは虚ろな鴨の表情が如く、がらんどうの目、無機的な嘴、乾ききった羽、枯れ枝のような水掻きになにかを語らせる。それは寄る辺がないものの苦悩の現れとして、孤独な気持ちを歌にして叫ぶアーティストの聲を聴きながら、私は今日も取るに足らない自分の気持ちを、丹精込めて剥製に仕立て上げていく。