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孵化

考えが上手くまとまらない。混線して、淀んで、屈託して、世知辛い状況が身を置くことの大事さを営んで、なにも書くことがない……と唸る僕の尻を叩く。叩いて、何も書くべきじゃないことがなにかを書くに至らしめるのだとしたら、それは不治の病か万能の薬か、別につまらないことを書いていると思う、自分でも。誰に向けたものでもなければ、誰を喜ばせるものでもなく、ただ自分が良いと思うものを書いているだけで、それがなにというなにでもなく、ただ書いているだけだ。なんの社会的意義もない。イドがなければやらない、のスタンスで来ていたのにも関わらず、イドがない、もしくは別の方向に出力されてしまっている、もしくは出口を見失っている、それらのどれに該当するかはわからないとしても、現に今書けないでいる。枯渇してしまったのだろうか。シャンプーの残り僅かのソープが、ぴゅるんと出てしまったら、もう僕の頭はすっからかんなのか。文章が頭から滲むのであれば、頭が空っぽな僕は今何を書こうとしているんだろう?

 

孵化、のテーマでなにか書きたかった。普段は普遍的な人間のテーマを見つけて、それを題材に思い浮かんだことを書いていた。浮かぶことがなければ、音楽的リズムで意味を跳躍して跳ねた。物騒なことを書く日もあった。けれど僕は誰も見ていないことを良いことに、割とひたすらに書き続けていたし、それで周りの人間は僕から離れて行ったのだけど、寝る間も惜しんで書いたところで、誰が見るわけでもないから、僕はこの大量に出来上がる文章の山に対して、なんなんだこれって自分で思っている。毎朝の紅茶を飲むついでに文章を書いている、くらいの感覚でいるのかもしれない。文章とは副産物なのだ、結局、なにかの目的に合わせて出力されるもので、それ自体がどうとかはないもの。ないとわかっていても敬虔な自分の気持ちに嘘はつきたくないと可憐に思う自分の気持ちに対して、「だから君はいつまでたっても何者にもなれないんだよ」と非道の声を掛ける自分も存在していて、

 

面白いものを書きたかったし、面白く読むうちになんらかの美しい情景が浮かんでくるようなものに仕上げたかった。毎回それを狙って、上手くいっているかはわからないにしろ、書けなくはなかった。書きあがっていたし、それで酔っ払いが自分の放尿に対して「やけに長い小便だな」と自分で気付くみたいな感慨はどこかにあったけれど、それは僕自身がその辺の酔っ払いと同等の行為に勤しんでいる、ということに他ならず、ならないから僕のは結局独りよがりのオナニーか、自分のためだけに書かれた狭量なもの、という風に解釈すれば人の可処分時間を奪うだけの非効率的なメディアである文章は、大層身勝手なものに映るのだろうし、僕は『わかる人にだけわかればいい』という人の空気が苦手だけれど、その実自分が一番にそれを体現してしまっていることが、なんというか手狭で、惜しくらむほどの情熱もなく、ただ参ってしまいそうになる精神を手を動かすことでどうにか忘れているという、ただそれだけのことだからこそ、僕の文章は特有の『酩酊感』を帯びるのだ。誰にとっても酒臭いでしかない、独りの世界に酔っぱらっている、承認欲求をこじらせたあわれなワナビ

 

だとすると、僕は文章なんてやめてしまえばいい、と思うことも容易くできるし、実際何度も思っている。嫌になったらやめればいい、お前は絵も描けるし、アニメもできるんだから他の道を探せばいい、と言うのは簡単だし実際何度も絵に戻ろうと思った。けれど昔のようには描けず、なによりも自分がそれをすることに喜びを見いだせなかったものだから、描いてて苦痛だった。なんでこんなことをしなきゃいけないんだ?と呪詛を吐きまくりながら描いていた。描画中は常に「死ね」と何度も呟いていた。それで出来上がったものはそれなりの評価がすぐにもらえるのだけど。

 

続かない。僕は評価目的に行動している自分にうんざりする。『純粋』じゃないと思ってしまう。それで、また文章に戻って来ては誰も読まないことをつらつらと、あほみたいに書き殴っている。僕には才能がない。人を喜ばせるようなことは書けないし、文章全体に鬱屈とした雰囲気が漂う。それを活かして小説っぽく仕立てる、なんてことも僕には器量がなくてできないし、というよりは出来るのだと思う。けれど「必然性がない」なんてワナビ特有の言い訳をかまして、それで今書けるものをひたすら書くってことに執着してしまえるのだ。もはやキーボードを打つ音を聴いていたいからそのためだけに書いているようなもので、本質は癒しなのだと思う。僕は、書くことが癒しになる人なのだ。

 

世の中には書きたい人は大勢いるけれど、読みたい人は多くないと聞く。これってなんだか残酷な話で、単純な需要と供給の相関図で言うと、文章の世界は供給過多なのだ。あまりにも、文章でなにかをしたいと思う人の割合が大きい。それゆえに、悲惨とも言えるレベル感の人たちも束になって群がってくるから、それらを淘汰して極まった上澄みだけを抽出して、花よ蝶よと育ててまるでその人がスターであるかのようにもてなす、という絶対王政のような状況が作り出されている。こんなことを書くと負け惜しみだとか言われてしまいそうだし、僕は実際に文壇の世界に憧れがある。あんな風に煌びやかな才能だけの世界で、孤独さと向き合いながら珠玉の作品を生み出す人たちと自分を比べて、なんか出来そうと思ってしまう。実際は卑小な僕にそんなことできないのだけど。地べたを這いつくばって、淀んだ精神性を持って画面にしがみつく餓鬼のようなものが僕なのだし、もし文芸の世界がまだ王政を営んでいるのだとしたら、僕の階級は非人か、アンタッチャブルか。その辺りはよくわからないにしても、少なくとも王ではない。僕にそんな素質はない。いくら文章を生産できる機構を持っているのだとしても、僕に許された場所はこうしたネットの海であり、しかも辺境の、酷く殺風景な場所に孤独な一軒屋を建てて、なんの宣伝もしないで自給自足で書いている、という社会性のなさにあるのだ。僕には社会性が備わっていない。自分の立ち位置が常にわからないでいる。わからないからこそ、周りの目を気にしてなにかするということは僕には一切できず、ただ独りよがりに文章の海に溺れることだけが僕の至福のひと時であり、不理解を優しく言い換えただけの言葉に甘えて、のうのうと生きている。貯金はないし、いつまでたってもできないし、親が居なければ今頃借金漬けの毎日だ。僕は三十過ぎたいい大人なのにも関わらず、いまだに定期的に親に金の無心をするし、先月だって三万せびった。お母さんは僕のことが好きだから、それで僕に仕方なく援助をしてくれるのだけど、僕は期待に応えるための行動をそもそもでしない人だから、ずっと周りにわがままな態度を取り続けている。友達もいなくなった。恋人とも、粗末な理由で別れた。僕は文章を書く度に不幸になっている。人間としての当たり前の幸福を手放している。それはAIを使うたびに人間が思考を放棄するようなもので、とても怖いし、それならばなぜ僕はいまだにこうして書いているのかというと、書かないと辛いからだ。こんな至らない文章を書くことよりも、書かないことの苦しみがやけに大きい。僕はたぶんだけど、書かないと死んでしまう人間なのだ。内側から腐っていく。腐って、ぶよぶよに肥えて、醜くなった顔で一心不乱に首を絞めるためのロープを編み込んでしまうような人なのだ。僕は自意識のおばけだ、誰も救わないし、自分を救うためだけに書いている、と言えば聞こえはいいけれど、その癖に評価がもらえないと落ち込む。「頑張っているのに」とか思う。頑張って居ないよ。こんな風に好き勝手に書くのは楽しいけれど、自己表現を作品にまで昇華するためには、大層な努力が必要だ。書いて気持ちいい、だけでは猿と一緒であり、そこから読者の目線や、編集者としての推敲、あえて構成を見直したり、削ることの勇気、それから徹底して直すためのしつこいくらいの粘り強さ。そういうものがなければ人に届く文章など書けないのだ。こんな風にネットの片隅で、ぼやきながら自分に甘えて、好きなものだけに囲まれて、それで人生もあっさりクリアなんて出来ちゃったら、僕は死ぬまで浮かばれないだろう。かつて生きて来た悲惨な時代の人間たちの、『うらめしや』という聲が聴こえるくらいには傲慢で、みっともない生き方をしている。裸の王様とは僕のことだ。僕は、こんな人間なくせして人と協調することを見下している。そんなことはいつでもできると思っている。傷の舐め合いをするのは馬鹿だけだと思っている。そんな輪の中に自分が入ろうものなら、それこそ僕は死ぬまで浮かばれない。こんなことを四六時中考えているものだから、僕は誰も触れられない異物になっている。いや、なってすらいなくて、無視されているだけだ。なんか怖いから、近寄らんとこ。というみんなの当然の危機察知能力が僕にも向けられているだけだし、僕はインターネットでホームレスのようなことをしているだけなのだ。現実には家があるけれど、でもネットでは承認欲求を腐敗させ、北欧の独創的な料理ぐらいのとてつもない臭気を放ちながら暴れているというのが僕なのだ。僕で、僕だから、僕はいつまで経ってもこんななのだし、これすらも自虐というのが表現においてかなり楽な部類のものだということもうっすら自覚しつつ、ああ僕はまた楽な姿勢で素振りしてしまったな、とかコントロールしなきゃいけないのに、いつも全力右ストレートを投げちゃうな、とか野球のことなんて微塵も知らないのにこんなことを平気で書けてしまう。正しい知識で書くんじゃないの?文章って。違うの?と僕は知識もないくせに『正しさ』が嫌いだから、正しく書かれたお利巧さんな文章なんてクソだと思っている。思っているけれど、現実には僕は”それすら”書けない不束者だ。いくら書いたって、何を言ったって、努力をしていないんだから意味がない。努力を放棄しても自分は行けちゃうなんて誤解をしている、才能もどきの馬鹿が僕だ。僕は頭が悪いのだ。本質的に、体系を会得することができない。できないというのは文字通りの出来ないの意味で、アカデミックな学習が無理なのだ。身体が受け付けない。授業は全部寝てしまう。だからこそ、僕はアカデミックな人たちから嫌われているし、でもその嫌われているというのは僕の勝手な思い込みであることが多い。実際は相手にされていないだけだ。そこまでの知見がある人と思われていない。だから、僕はどこの世界にも居場所を持てなかった。彷徨える魂が僕なのだ。亡霊のように、恨めしく才能の世界を眺めて、それでも満たされない自分の気持ちを適当な文章に上乗せして、書いたから書いたでしょ?で威張って、結局評価されるようなものでもないからまた酷く落ち込む。こんなサイクルを堂々巡りし、いつかなにかになるのかな?バターなのかブラックホールなのかそれ自体はわからないけれど、わからないなりに悲惨な末路を辿るんだろうとは思う。だって僕は大して面白いことをしていないし。美しいものだって、僕だけがそう思っているだけで、誰もこんなもの読まない。読まれないものを書いて密かな安寧を得ている。それは誰にも共感されるものでもないし、ただ人を不快にさせたり、うんざりさせたりするだけの質量の塊であり、僕はそれを本来は分配して、取り分けて、小綺麗な皿の上に乗せて、美味しく食べられるようにフォークなんかも添えちゃって、それで「どうぞ召し上がれ」ってフリルの付いた服装で丁寧にお辞儀をしながら渡すべきはずのところを、顔面に放り投げている。出来立てのケーキを「ほら食えよ」って思いっきり顔面に投げつけて、その場から逃走している。テロ行為だ、こんなの。普通に犯罪で捕まる。けれどダーティな魅力が自分にはあるんだなんて、それもまた錯覚でしかないのだし、ここでいつもの支離滅裂に逃げることだって僕にはいくらでも出来てしまい、それを今回しないのは、たまたまそういう気分なだけだ。「今日はこの辺で勘弁してやる」って子悪党が言うセリフみたいな状況を自分で作っている。「本気を出せばいつでもやれるんだからな」と、やれもしないくせにのたまわっている。僕には逃げる手段が余りにも豊富なのだ。文章で認められなければ絵があると思ってしまうし、絵が面倒になったら「いや、文章書きですから」みたいな表情で微笑めるし、現実で居場所がなくなったらインターネットに城を立てるし、ネットで炎上したら現実が一番と言って美大受験を始めるし。なんか本当にそういうやつなのだ。そういうやつだから、そんなこんなで誰も相手にしませんというだけの話がここまで膨れ上がることも、僕には大層嘆かわしくて、ここまで自虐しても結局

 

「こいつってただ自慢したいだけじゃね」

 

って思われていそうな感じもうっすらと伝わるし、駄文生産機ですどうぞよろしくってユーチューバーが売れたい一心で脳を焼き焦がした動画を投稿する風なテーゼを投げかけることにも僕の意義は存在するのかもしれないし、ネットでやたらと長い文章を書いていることを仄めかす人って多いけど、あれは僕だ。実際、長い文章なんて誰にでも書ける。手を動かしていればいいからだ。手を動かして、日本語がわかれば誰でもこんな文章は書ける。書けるのに、書けるのは僕しかいないとなんかどっかで思い込んでしまう恥知らず。僕は額に恥と書かれたままで丸裸で生きている冠もマントもない王様。周りから指を差されても気にもとめない。なぜなら王様は自分が裸であることを自覚していないからだ。そんなことすらも同名タイトルの村田紗耶香さんの小説は大層面白かったけれど、僕がそれをこんな文章で上塗りしてしまったことは残念で仕方ない。いいのを書こうとした。だから書けなかった、それだけの理屈が今回であり、今回なのだからこれはもう秘匿として誰にも見せないで放棄することだって僕にはできたけれど、敢えてしない。僕は今日も書いたってことだけで満足するタイプの不出来な人間ゆえに、今日も書いたということしか誇れることがないのだから、書きましたよとだけ伝える。『孵化』というタイトルから面白いものを書こうと思ってこんなものを書き散らかすのは本当に悲しくて仕方ないのだけど、僕はまだ生まれる力がないのだ。表面にヒビすら入らない。受精すらしていないかもしれない。命未満の無精卵、それが今回の僕なのであり、そう締めくくればなんかまとまるって思ってるところも逃げの一つの形であることが、僕がいつまでたっても空回りする原因なんだろうなと思う。