今までずっと自分のことをロジカルだと思っていたんだけど、最近打ちのめされることがあった。
「がみにゃん、全然ロジカルじゃないよ?」
唐突に、友達にそう言われた。なんで今まで気付かなかったんだ、とまで言われた。そうなの?って驚いたのと同時に、そうなのかもしれないって腑に落ちる感覚があった。なぜならその話は元々私から持ちかけたものだったから。
その日、私は会社でロジカルシンキングの研修を受けていた。私は思考について講習を受ける時、その内容をふんだんに舐める傾向にあるので、その日も
「ロジカルシンキングだあ?んなもんとっくのとうに身に付けているよ。全員論破すりゃいいんだろ?掛かってこいよ」
というスタンスで居た。なんなら吹聴もしていた。
講師が言うには、ロジカルシンキングとは目的地を定めて、そこから逆算した行動を取ることだそう。よくあるのが目的と手段が入れ替わることで、手段が目的化すると、本質から外れた行動を正当化してしまうため危ないのだと。そういったことは往々にしてあるそうなのだけど……要は結論ファーストで話すことがロジカルシンキングの重要なファクターなのだと話していた。非常によくわかる話であり、私も日頃そうやって喋るように心掛けているはずだった。
実際、私は逆算できる。こう見えて段取りできるし、どうすれば欲しい結果が手に入るのかもなんとなくわかる。過去に成功体験もあるし、ロジカルな意見を必要とされる場所で蔑ろにされた経験もない。それなのにどうして、自分がロジカルじゃないと気付いてしまったのか。
講師によると、ロジカルシンキングにおける目的地の設定は独りよがりなものであってはならないのだと言う。最終的なゴールは他者が共感できるものでなければならないし、自分勝手な目的を決めたところで、共感してもらえる相手がいなければ意味がないと言う。ロジカルシンキングとはあくまで、社会的な目的を立てることに意義があるそうなのだけど……私の喋り方は逆だった。自分勝手で、悪く言えば支離滅裂な動機こそが私の発言の向かう先であり、それは明後日の方向にあるものだから他人が拾えない、もしくは拾うことが困難なものなのだと言うことに、今の今まで全然気が付かなかった。
むしろ、みながそうやって目的設定をしながら喋っているのだと言うことにささやかな恐怖を覚えた。そんなの、疲れないか?いちいち考慮しなければ話せないし、配慮ばかりで疲れてしまいそうだ。自分が何を喋っているかなんて、わからないくらいがちょうど良いんじゃないか?むしろそれをわかっているという気概は錯覚以外のなんなのだろう、くらいに思っていたから、考えながら話すという行為自体を軽んじていた。
でも講師はずけずけと言う。社会的な目的を履き違えないこと。個人的な意見ではなく、全体としての目的を設定して逆算して話すこと。これらが社会において重要であり、これから学ぶべきことなのだと。……耳に痛い話だ。私は今まで、言葉は脊髄から勝手に湧き出て、舌がそれらをぺろりと巻いて、腕は言葉につられて動いて、好き勝手に身体が行動するのをただ見守ることが私にとっての会話だったのだから、いちいち考えながら喋ることなど今更できるわけがなかった。
これってなんかに似てるよなと考えて、たぶんリリカルなのだと気付いた。なのはじゃないよ。リリカルなの"だ"けど、ていうかリリカルってそもそもどう言う意味?気になったので辞書を引いてみることにする。
叙情的。叙情詩的。
ほうほう、つまり叙情ってなんだ?これも意味を調べてみると
個人の感情や心情、感動を詩的に表現する様子
なるほど。『個人』の気持ちが『詩的』に表現されていることがリリカルなのか。ふむふむ……あれ?そもそもでリリカルの説明に叙情詩的ってあるよな。それで、叙情の説明にまた"詩"が出てくる。
詩って、そもそもなんなんだ?
こんな疑問を抱く人も多いと思う。私も詩の意味を最近までよくわかっていなかった。なんとなくロマンティックだとか、ノスタルジックだとか、懐かしい感覚をそう思ったり、あるいはエモいとかメロいとかの若者言葉もそうだし、あとはドリームコア、ウィアードコアなどの局地的な音楽ムーブメントなんかも詩的感情に入るのかもしれない。浸るとなんだかじーんとするっていうか、ほんのり温かかったり、くすぐったくなる感じ。完全な明るさではなく、仄明るい様子。……考えれば考えるほど、余計にわからなくなる。だから『結局』なんなの?リリカルって『最終的』にはなんなのさ。いいから『結論』で話してよ。そう言いたくなる人の気持ちもわかる。
話は飛ぶけれど、私はある時から詩が書けるようになった。書こうと思ったことはそれまでに一度もなく、なんなら文章表現自体を舐めていた。だって絵の方がぱっと見で分かるし、考えなくても伝わるし、人気あるじゃん。わざわざ『読まないと』『伝わらない』文章を本気でやる意味ってあるの?そんなの非効率なんじゃないの?と思っていた時期もある。けれど、私はそのまま絵の道には進まなかった。理由は自分でもわからないけれど、なんだか描いていても満たされなくて、わざわざ自分が描かなければいけない動機を見出せずにいた。
そうして十年くらい何もせずに過ごしていたのだけど、やっぱり身体は作るために出来ていたから、クリエイティブフラストレーションは溜まっていく。ある時、Instagramのストーリーに短い文章を書いてみた。それは自分の中に溜まっていたどろどろとした気持ちを吐き捨てるものだったけれど、案外すらすらと書けてしまった。それどころか、文章が一人歩きしていると思えるほど、私の意図を超えたものが自分の中から生まれてくるのを感じた。
"この感覚"の正体がわからないまま、ひたすらに書き続けた。何年か続けていくうちに、出来上がったものの全体像が、おぼろげながら『詩』なのかもしれないと気付いた。(気付いた、という事実を先に提示することが私にとっての結論ファーストな思考方法であり、そこからなぜかを突き詰めて考えたり、5W2Hを整えていく作業のことを私はロジカルシンキングだと思っていたのだけど、どうやら少し違うみたいで、この場合の『気付いた』という結論はどこにも向かっていない。それどころか今にも消えそうなくらいの、ただの『気持ち』でしかない。しかし私にとってのこの気付きは『確信』であり、揺るぎない『経験』としてその後の語りを決定づけるものになる)
それからは夢想状態で、書きに書いた。途中、小説っぽいものが始まったからブログに投稿もしてみた。完了まで四年ほど掛かったにも関わらず、出来上がるまではそれが小説だと言う確信はなく、大袈裟な一人語りっぽいな、別になんてことのない、ただの酔狂な物言いなのだろうくらいに考えていた。実際には──恐らく随分と前から、それは『小説』の形をとっていたのだろうし、短いものは『詩』の体裁を持っていたに違いない。
私は詩のことを何にも知らない。詩集なんて、数えるほどしか読んだことはない。むしろそう言った行為を忌避していたし、そう言った表現にならないよう、細心の注意を払って作品作りをしていた。できるだけロジカルで、みんなに伝わるように、丹精込めて表現をやっていたつもりだった。
でも、ある時に気が付いた。作り手は鑑賞者のことを気にしてはいけないのだと。気にしてしまったものは途端につまらなくなる。どうしてか芸術めいた方向の仕事には、社会の大多数のものの考え方と逆をいく必要があるのだと、大学卒業間際に気付く始末だった。
どうしてこうなってしまったのかは、自分でもわからない。私は自分勝手に作られたものが、たぶんだけど好きなのだ。そういうものを美しいと思うように身体が作られている。だから私は、自分の美意識に基づいてそうではないものを批判している……というのも一つのものの見方なのだけれど、でも個人の実感としては、芸術とは一つの形を保っているものなのだ。それは冠みたいなものに違いはないけれど、でもその冠は間違いなく王を飾るものだ。
別に、好きとかどうでもよくない?って思う。大多数の人にとっては、お前が好きだからなんなの?の一言で片付けられるような些細なものでしかそれらはなく、それでも私にはどうしてか、自分が好きなものは、みんなも好きなのだと思える瞬間がある。
他人の心なんて覗けない。僕らはシンパシーを感じても、直感で良いと思っても、さまざまな状況がそれを手に入れることを阻む。歌手に憧れても、自分の歌の実力なんてたかが知れている。もし自分が"たまたま"歌の才能がない人に生まれてしまったら、歌手を目指すのなんて不幸だ。だからみんな、自分の実力を過小評価し、実際以上に出来ないものだと思い込む。それにどうしてか、自分の才能を過信することは現代では恥ずべきことだとされている。(実際にはされていない。けれども学校生活で、家庭で、あなたはどんな子供時代を過ごしただろうか?)
なにかを行うときに、その動機や根拠が必要とされるようになったのは、いつからだろう。一体いつから、私たちは目的やテーマに沿った行動を求められるようになったのだろう。三歳までのあなたは記憶を持っていないはずだけど、それじゃあどうやって、あの頃のあなたは誰かにミルクを求めたりしたのだろう。それは一体なんの目的に沿っての行動だったと言うのだろう?
目的や動機があるとすれば、それは言語化できないものだと思う。そうでもなければ、争いなんて起きるわけがない。全てが言葉やルールでコントロールできるならば、僕らは明日滅んだって構わない気がしてくる。どうしてか今の社会はそこを目指したがっているように思えて仕方ないけれど……大事なのは言語化できない気持ちなんじゃないか。そういった気持ちを軸に目的や動機を作る必要があるんじゃないか。
さっきの話に戻るけれど、私の場合はそれが『詩』だった。もっと言うと詩なるもの。詩めいた、風な、的な、っぽい、エトセトラ。正確に書けば書くほど散漫になる空気みたいなものの状態こそが詩であり、その連なりのことを僕らは『詩的表現』と呼んでいる。
人間の心の中には、そんな空気が常に流れている。心の中に吹く風が、人を感動させたり、泣かせたり、時には苛立たせたりする。つまり気持ちを生み出すためには空気の循環が必要なのだけど、これが結構難しい。実際の私たちの心は外から入ってくる虫や、埃や、鼠なんかで簡単に汚されてしまうからだ。だから、密閉してしまったほうが楽だなんてつい考えてしまう。
そう、密閉されていく心の状態。これっていわゆる鬱の症状に近くて、周りからの情報をシャットダウンする状態。これ以上入れたら溢れ返ると、脳が判断した状態。鬱の人ってエネルギーが空っぽであると思われているけれど、実際は逆で、エネルギーが有り余っている。しかしどこにも発散する場所がない状態。そうやって密閉された心の中で、感情が段々と腐敗していく様を私たちは鬱と呼んでいるのだけど、つまり疲れ切った人というのは、行き場のない気持ちを抱えた人たちのことなのだ。それは絶えず気持ちを『整理し』、『簡潔に』、『わかりやすく』した私たちの当然の負の側面であり、肯定的な気持ちも、否定的な気持ちも、同程度に存在している。それなのに、片方だけを発散していたら、もう片方は内側に留まるに決まっている。
そう考えると、やっぱり負の感情は外に出す必要がある。けれどもまともにやろうとするとそれはリスクが大きい。友達を失ったり、仕事での評価を下げられたりするかもしれない。だから手っ取り早い方法で、それらを無かったことにしようとする。当たり前だとか言って、我慢を自分に強いたりする。けれども、気持ちは絶対に消えない。忘れることはあっても、本人の思いもよらぬところで、それらは勝手に噴き出てくる。
気持ちを絶対のものだと仮定することでしか、リリカルシンキングは成立しない。もし気持ちをコントロールできると考える人がいたとすれば、その人はロジカルな人なのだろう。不確かなものを感じ取れない人も世の中には居るらしいけれど、私はそんなのって怖いと思う。見えないものの方が気持ちを寄せやすいし、なによりも不確かだからこそ信じたくなる。もちろん、なにも信じずに居たいって人も中にはいるだろうけど……見えない側にされてきた私の意見としては、不確かな自分の気持ちを大事にしてほしいって思う。そうでなければ生きてる意味なんてなくなってしまいそうじゃないですか?
保坂和志の小説、『季節の記憶』に二階堂というゲイの男性が出てくるのだけど、その人も気持ちを軸に行動を起こす人で、それを主人公が(保坂氏が自身を重ねたかは不明だが)疎い目で眺めるといったシーンがある。それはヘテロから見たゲイ男性は感情に振り回されて見えるとか、そんな短絡的な理解ではなく、もっと深いところの、絶対に理解し合えないといった断絶に近い様子でそれらは描かれている。
私はこのシーンでとてもひやりとして、自分のことなのかと思った。私はよく、自分の属性とは真反対の人の存在をないものとして考えるところがあり、それを小説の中であらわにされたのかと思ったからだ。なんだか自分が古臭くて、非科学的なものの考え方をする人のようにも思えた。けれどもそうではなくて、ただ自由で居たいのだ。お互いに、しがらみを受け入れることがたまたま出来なかっただけだ。
どれだけ所有しても、学んでも、培っても、それを感じ取るのは心であり、心に外からのものが入らない状況って酷く不自然であり、そういう生き方を多様性なんて言葉で私は肯定したくなくて、だめなものはだめだと思う。でもお説教なんて誰も聞かない。じゃあ、どうしたらいいのか。これに答えるために、ロジカルシンキングは必要とされてきたのだと思う。
でも、リリカルさだって必要だ。役には立たないのかもしれないけれど、すでに経済に満たされた私たちにとって、心を豊かに保つこと以上に健やかに生きる方法なんてあるだろうか。
実践的なことは何も書けないのだけど、方法論は他の人に任せたいのだけど、『リリカルシンキング』という概念はここで提唱したい。波及が目的ではなくて、ここに居るということをただ示したいだけで、それだってわがままな一個人の気持ちでしかないのだけど、でも気持ちで語りたい。私は二階堂ではないけれど、彼の気持ちはよくわかるし、きっととびきり純粋で、愛に飢えた経験のある人物だったのだろうし、それは簡単に理解できるものじゃない。そう言いたかったからこそ、あの小説はめちゃくちゃに面白かったのだと思う。
自分の結論が、結論じゃなくて詩なのかもしれない。そう気付いた時には腰抜かすほどに驚いたのだけど、もっとびっくりしたのは友達から言われたことだ。
「詩じゃなくてコピーだよ。がみにゃんの結論は、結論じゃなくてコピーなの」
もはや意味がわからないけれど、そういうものなのだと解釈するしかなかったし、そういう風に解釈したら肩の荷が下りたというか、なんだと思った。適当でいいじゃん!っていうのはやりすぎだけど、その言葉には商業と芸術が均等に混ざっている感じもして、わくわくした。そういうのがやりたくて、わざわざ絵なんて描いてたりしてたんだよなって、昔のことを振り返ったりもした。
けれどもノスタルジーに救われたくはなくて、私はやっぱりファンタジーをやりたい。いつもふんわり着地したかと思えば、ゾッとするほど急落下するシーンもあって、みなさん戸惑うと思うのだけど、でもこれが私の文章なので、こういうものだと理解してください。
始めよう、リリカルシンキング。
