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耳鳴

湯舟に浸かり、顔を沈めると耳の位置が気になり始める。耳穴に水が浸かるか、浸からないかのぎりぎりまで沈め、呼吸に合わせて膨らむ肺の体積分に水位が上昇した時に、耳の中に水が入り、『こぽ』という。そのまま水に顔まで浸かると、『こぽ』は『こぽぽぽ』という音に変わり、やがて水中に居る時の『ごー』っという音に変わる。海やプールに潜った時に、音が開ける印象があるけれど、あれは音の伝わり方が水中だと遅くなるという特性が音を低く伝達しているのだ、と知識もないのに勝手に断定して見る。けれど水中の音の方が遠くに伝わるという話もあり、クジラやイルカのエコーロケーションも、その水中での特性を利用した彼らなりのコミュニケーションだと考えると、水中の音というのはどこか地の底からやってくるような荘厳な響きがある。私は音と向き合う最中で、自分が聴いている音と世界でなっている音が違うと思うことは多い。例えば無意識に人が捉えている自分の声は、実際は鼻腔で反響しているから現実での声とは聴こえ方が異なる、というのは誰しもが経験することであり、録画した映像を見ると声もそうだけど、仕草や挙動なんかも結構びくっとすることが多い。意識している自分のイメージと、周りが見ている自分の姿にここまで乖離があるとなると、何も信じられないというか、常に客観性を意識するほかにそのずれを修正する術はないように思うのだけど。

 

みなずれを修正しながら生きていると思う。他人にどう思われるかとか、世間なるものの声を勝手に作り出して、後ろ指を差されないように生きている。そうすることで人はある意味模範的で正しい人間の像というものから逸脱せずに、協調性を持って暮らしていくことができる。そんな考えもわかるというか、そのものずばりなのでそりゃそうだとしか言いようがないことだけれど、私はもし耳のように心にも栓ができるのならば、既に『心栓』をしている。心に他のものの声が入ってこないように、ブロックを掛けている状態で生きている。これは私が意図的にそうしているというものではなく、ほとんど無意識のレベルで実行されていて、私はこの『心栓』のおかげで世間なるものの声がほとんど聞こえないようになっている。私が聴こえるのは常に頭の中の声だけ。頭の中で、複数の他者の声が常に鳴り続けるようになっていて、私はそれを頭の中の出来事だと常に認識できているから、心までそれが侵入できない。よって、私は傍から見ると『のほほん』であったり、『ふらふら』と生きている風に見えるらしいのだ。頭の中は嵐なのに。嵐の中の家くらいには、穏やかで優しい人格に見えているのだろうか。

 

よく他の人間と話していて感じるのが、周りの人たちはそこまで考えていないということだ。これは悪い意味でというよりは、単純に機構の話で、私はなにもしていないときも、寝ている時を除いて常に頭がフル回転している。考えようとしなくても考え続けているから、言葉が常に浮かび続けて、割と凄い状態で毎日生きている。他の人によると、そもそもで考えようとしないと考えは浮かばないものらしいのだ。そんなことある?って思うけれど、あるらしい。考えは意識して行うものだから、疲れるし能動的なもの、というのが人間の基本的な状態らしい。私は意識して考える、ということがむしろ不得意であり、やったことがない。考えは受動的に浴びるものであり、脳内で勝手に見た景色や、聴いた音に対して思考が自動形成され、それを摘まんだり、引っ張ったり、伸ばしたりできる。考えには形が付いているのだ。私はその粘土のようなものをこねこねし、やんわりとなんらかの造形を作り上げていく。

 

それが私の場合文章なのだけど、こういうことをいうとみな理解を止め、黙り込む。いわゆる『変な話』に該当することなのだ。私にそんなつもりがなくても、みなは思考に形が付いているというのがどういう状態なのかを知覚することはできないし、ましてや色、質感、濡れているか乾いているか、固いか柔らかいかなどまではっきりと区別できることを、他人に伝える手段がない。これは『クオリア』の話だから、おいそれと他人に話さないのはもしかすると当たり前なのかもしれないけれど、私はしてしまう。なぜなら私にとってはこれは日常的な状態であり、奥様が天気の話をするくらいに普通のことなのだ。「今日は洗濯物がよく乾いていいですね」「ええ、洗濯は薄水色で、若干乾いたばさついた表面で出来ていますから、こねやすいですよね」「はあ」

 

だけど、私は自分のことを特別だとはあまり考えていなくて、分母で言えば間違いなくこういう人は少ないのだと思うけれど、そうではなくて、周りの人たちもフィルタリングしていると思うのだ。私の場合、思考がたまたま自動化される仕組みだったけれど、もしかすると他の人たちは、『共感』が自動生成されるのかもしれない。もしくは『協調』とか、『羞恥』などが自動発生しているような気もしていて、これは私が周りの人を見ながら思っているだけのことだから、もしかすると違うと言われてしまうものなのかもしれないけど、特に『共感』については、私が殆ど理解できない類のものだけれど、みんなすぐに「わかる」って言うし、できていると思えている。なぜだろう?

 

私がわかるって手放しで言えないのは、わかってないから。でも、周りの人もそうかもしれない。わかるって言葉にしていたとしても、本当にはわかっていないのかもしれなくて、でも周りに合わせて「わかる」って言っているだけで、本当は誰も共感なんてしていないのかもしれない……と思うとなんだか生きることが絶望的に思えてくるけれど、実際には私も、本当に共感できる話が飛んで来たら、ちゃんと「わかる」って言っているし、そこに嘘はない(つもりだ)。わかっていないのにわかるって話を合わせている人がもしいたとしたら、それは止めた方がいい。なぜなら言葉というのは嘘を混ぜれば混ぜるほどに力が弱くなっていくものだから。弱くなった言葉には、人を動かす力がない。動かせない場合、その人は存在ごと軽んじられ、やがては邪険に扱われてしまうだろう。

 

けれど、私がいくらそれを忠告しようが、世の中の人たちはわかっていなくてもわかると言い続けるのだろうし、それはその人たち特有の『クオリア』で、私には見えていないなんらかの景色を感じ取っているのだろうし、それが恐怖なのか、楽園なのか、夢なのか、その辺りは定かじゃないにしても、みな各々感じていることはある。あるというのが大前提で世の中は動いているのだけれど、私は時折、ここまで感じているのは自分だけじゃないかと勘繰る時がある。

 

「繊細だよね」

 

何度も友人にそう言われた。「なんか、繊細すぎてガラスのハートすぎる」私はそれを聞いて、そう見えるんだと思いつつも恐らくそうであることは否定する程が出来ず、多分そうなんだろうって諦めがやんわりと感じ取れたから、「そうなんだよね」と言葉を濁した。繊細って、聞こえはいいけれどやっぱり生きにくい象徴なんだろうなと思う。今のSNSの風潮的に繊細な人は増えている気もするけれど、しかし私は鈍感な人がどうして鈍感で居られるのか、そこについてはどうひっくり返っても理解できる気がしない。

 

『鈍感力』という言葉も最近はあるみたいだけれど、就活の時に教授が、うまく行っている生徒を見て「あの子は鈍感力が高い」と褒めていたことを思い出す。その言葉の裏には、『君には鈍感力が足りない』という私に対しての意図もやっぱり含まれていたのだろうし、そういう意味では私は全く鈍感ではなく、むしろ類まれなる『繊細力』を持って生まれてきてしまったのだと自負するけれど、私は鈍感さを褒められたその人を全然羨ましいと思わなかった。その人が作るものは上手いけれど、上手いだけだし、私の好きな儚さや深淵を覗き込むような得も言われぬような気配、また明後日の方向から飛来するかのような独創性などは微塵も感じられず、ただ『キャッチーで、わかりやすくて、明るい』こんな感じのものを作るのが得意な人だったからだ。

 

フィルタリングしている、と思った。その子はきっと、私が聴こえているような頭の中の悪い声なんか、一切耳に入らないのだ。ほとんど断絶に近い様相で、それらをシャットアウトしている。それはその子が意図してそうしているものではなく、むしろ無意識で身体がシャットアウトしているのだと思えた。どうしてかと言えばその子のために。私は結構守護霊系のアニメが好きで、『ヒカルの碁』とか『ジョジョの奇妙な冒険』とか『うしおととら』とかそういう、主人公にはそこまでの才覚はないけれど、憑りつく人智を超えたなにかによって、主人公が途轍もない能力を発揮する、という物語が結構好きなのだけど、それに近いものを感じる。その子はきっと『鈍感力』という守護霊に守られていて、他の余計なノイズを遮断されて明るいものだけど見ていくことができる。逆に私は『繊細力』という守護霊に守られていて、その霊によって本来は見えないはずの社会の嫌な感情、逃げたいような、耳を塞ぎたいような感覚を余すことなく取り入れることができる。……こう書くと、『鈍感力』の方に守られたいと思う人が多くなりそうだけど、それはまじでそうで、繊細さんになってもいいことがない。普通に社会で生きていくだけならば、鈍感な方が圧倒的にいい。ただしそれはクリエイティブをするかどうかによって話は百八十度変わってくると私は思う。

 

クリエイティブの才能と呼ばれるもののほとんどは『繊細力』から来ている。世の中のノイズとされているもの、悪しきもの、醜いもの、そういったものをシャットアウトしていては、作り出すものは上手いけど、上手いだけのようなお手本感がどうしても滲み出る。繊細さによって不必要に生きにくい情報を与えられた人と言うのは、センサーが過敏になる。拾わなくていいことまでキャッチしてしまう。それは普通に人生を生きるだけであれば確実に邪魔だし、下手したら人生ドロップアウトすることにもなりかねない綱渡りの感覚で間違いはないのだけど、ただ間違いなく言えるのは、そういう普通に生きる上で必要ないことというのは、創作においては最も重要なこととして数えられる。

 

なぜか。それは人間誰しもが心に抱えているけれど、言語化したり、視覚的に表現することを躊躇ってしまうような、負の心そのものだから。私は『鈍感力』によって守られている人であっても、必ず負の側面というのは持っていると思う。けれど、鈍感さゆえにそれをないことに整理してしまえる、というのが私がその子に対して思ったことなのだけど、

 

おやすみプンプンってあるじゃん?全然わかんないんだよね」

 

その子はそう言っていた。私はあの漫画が理解できない人がこの世にいることがにわかには信じられなくて、度肝を抜かれた。なぜなら私は『おやすみプンプン』が好きだから。あれほどまでに人の言語化しにくい感情を解き明かした漫画はないといっていいくらいには刺激的で、カタルシスに満ち溢れた名作だから。それを「わからない」の一言で片づけられた瞬間、ああこの人とは絶対にわかり合えないなという、薄ら寒い感覚が背筋に走った。

 

浅野いにおもそうだけれど、『惡の華』の押見修三や、少し系統は違うけれど『闇金ウシジマくん』の真鍋昌平なんかもその類に入るだろう。全員、幸せをそのまま幸せとは描かない。むしろその真逆にある不幸を徹底して描くことで、必然的に人の人生の肯定になるような僥倖を指し示す、と言った作風で漫画を描かれている。私はこれらのもの全てに、言い表せない尊敬の念を感じられるし、それはあっさりとわかる、わからないで片付けられるようなものでは到底なく、「所詮エンタメでしょ?」と誰かに言われたこともあったけれど、とてもそんな風には思えず、かなり『真理』に到達しちゃっている気がするのだ。全て、社会で普通に生きる上では全く必要のないテーマだけれど、それが漫画という平面作品に落とし込まれた瞬間に、恐ろしくも切実で、どこか儚い作品に生まれ変わるのだから不思議だ。私はそういうものが好きで居られるように、『繊細力』の守護霊に守られているのであり、それはもしかすると守護霊ではなく悪戯神(ロキ)なのかもしれないけれど、しかし呪いであろうが何であろうが、見つめられてしまったからにはそう生きるしかない。そこに対する覚悟を決めるか決めないか、という話でしかないことは肌感覚で理解できつつある。

 

私は、本来人に見えたり感じ取れないような負のエネルギーを敏感に感じ取ることができる。それは『耳鳴(じめい)』ともいうべき、必要性においては皆無に近い、むしろ邪魔なだけの都合が悪い存在で間違いはないのだけど、でも私は必要かどうかを社会や他人に決められる筋合いはないと思っていて、必要かどうかは、表現してみないとわからないと常々思っている。もし本当に世の中に負の感情を描く作品がなかったら、社会の不穏さは全部現実に向けられ、それこそ最悪な悲劇(例えば戦争とか)を引き起こしかねないような、そんな錯覚すら感じる。私は、悲劇を起こすのはいつだって幸せな人たちだと考えている。幸せな人たち、つまり負のエネルギーをシャットアウトする人たちは、平気で人を排斥し、区別できる。そして自分たちに差別をしているという自覚を全くもっていない。完全に能力主義で良いと思っているし、資本主義の名の元に偉い人の存在を疑わない。そんな風に利口に社会を生きようとする人のことを私はいつか独裁者になる人としか思えないのだけれど、これは『繊細力』の神様に睨まれた私が”思わされている”ことであり、当の鈍感な彼らは、生涯そのことに気付くことがない。気付いたとしても、すぐに忘れる。なぜならその人にとって都合の悪い情報は『鈍感力』が消し去ってしまうから。これら全ては私が想像していることに過ぎず、私の言うことに「考えすぎじゃない?」と言う人がいたとして、私は「そうかあ」と小さく落胆を示すだけだ。けれど、もしかしたら、ほんの少しだけでも、誰かが「わかる」と言ってくれるかもしれない。私と同じように繊細で悪戯好きな神様に微笑まれてしまった可哀想な誰かが、「絶対に他の人には言えないけど、わかる」って心の中だけで同意してくれるような、そんな未来があったら、私はそれこそが幸せだって思えるのだ。