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悠然とした広場にあるピエロの醸す穏やかな夢

今敏の映画『パプリカ』を観たのは、僕が高校二年生くらいの時だった。最初は意味がわからなかった。インターネットで転がっていた当時は違法とかまだ認識が薄い時期のアングラサイトで流通している邪悪なデータ、僕はそれを好奇心から閲覧した。とてつもない世界が広がっていて、というよりは別に東京とかには元々あったんだと思うけど、当時僕には世界って見渡す限りの田園で、山で四方を囲われていて、広い駐車場とコンビニにたむろする勉強をしない学生とか、そんな認識でしかなかったから、『パプリカ』の持つ世界観の広さに驚いた。作画目的で見始めた僕は、きれいな絵が動いているというだけで感動出来た当時、今敏監督作品の映画はもれなく、全てが美しく、かつその頃の『萌え』とか、安い『絆』などの響きを一蹴する輝きをもっていて、僕はその感動からあらゆる今敏作品に触れた。DVDを借りられなければ違法で観た。観たっていいくらいの衝撃や、感動が僕を包んで、結局僕は今観てないのは『千年女優』くらいなのだけれど、アニメーターを志す若者特有の消費のしなささから、僕はたっぷりとその映画の持つ価値観や、哲学だけを吸収して、財布からお金を出すことはほとんどしなかった。

 

今敏の映画はどれも、人情味あふれたキャラクターが悠々自適に過ごしている感じがするのだけど、でも全員目の焦点が絶妙に外れて見えて、例えば通常は面と向き合った時には自分の目を見られていると思うと思うのだけど、今敏のキャラクターは頭の十センチくらい後ろに焦点が当たっている気がして、僕はなんだかそれを懐かしいと思った。けれど、それらは不気味さにはつながっておらず、ちゃんとキャラクターの生き生きとした目の表現になっていて、女性はきれいだし、男性はかっこよかった。リアリティとデフォルメを極限まで良いとこどりをすると、彼のような作風になるのかもしれない。でも、やっぱり話の意味はわからず、唐突に奇天烈なことをいう博士や、登場人物の行動の動機がわからず、やっぱり当時も難解とか言われていたみたいだったのだけど、僕は好きだった。意味は分からなくても、面白いものは面白いということがわかる。

 

僕は大学時代によく夢精をしていたのだけど、それはその頃に好きだった人と付き合うことができなかったフラストレーションであったり、コンプレックスであったり、はたまた全然違うところでの欲求不満であったり、色んな解釈ができるんだけど、僕はよく男性のペニスを夢想した。アナルは夢にほとんど出て来ず、出てきたとしても印象だけのような、仄暗い洞窟でしっとりとしたものを触る、程度に存在は感じ取れたのだけど、ペニスだけは別格で、はっきりと、くっきりとした巨大な一物があからさまな態度を放っていて、僕がそこまで性器をイメージできるのは、やっぱりpixivでえっちなイラストばかりを観ていたことが起因するのだろうし、今でももうちょっとマシな青春時代の過ごし方だってあっただろうに、とか思わないでもないんだけど、他に選択肢がないっていう状況はやはり強くて、貧乏が金持ちに勝る理由があるとすればそこしかない。僕は場所にも、経済にも恵まれなかったけれど、意志が強かった。やると決めればなんでもできる、そういうやればできる子の鑑みたいなものが僕だった。

 

あくる日も、そのまたあくる日も、夢には巨大なペニスが出てきて、僕を乱暴に犯す日もあれば、僕がそのペニスを食べる勢いで飲み込む日もあったし、直接的に淫夢を見なかったとしても、僕はあきらかになにかに飢えていて、それは巨大な冷蔵庫から食べ物を盗む形であったり、友達と絶交する夢だったり、後はもう、とにかく追いかけられた。夢の中で僕は、なにかから執拗に逃げていて、逃げて、逃げて、逃げられなくてあとコンマ一秒のところで殺される、という瞬間に汗だくだくで飛び起きた。「なんだ夢か」って台詞があるけれど、あれは比喩じゃなく本当に飛び起きるとそう言う。現実が現実であってよかったというか、夢が夢であってよかったって、DEENの歌詞みたいだけれど、本当にそう思って、僕は自分の居る世界と夢の世界は完全にわかれているものと、そう思っていたのだから、それらが混ざると困惑した。混ざってこないで欲しい、と率直に思った。

 

いつも現実逃避をしていた。ゲームの世界にずっとのめり込んでいたのも、見たくない現実から逃げるためで、ケモホモの絵を描いていたのも、そうすれば報われない僕がなんらかの形で昇華すると考えていたからだし、恋人ができないのも、田舎から出られないのも、全部自分のせいじゃないのに、自分のせいにしていた。僕は段々と鬱屈としてきて、それで夢にまで、その虚構を見出そうとしていたのかもしれないけれど夢の中で僕は、たぶんだけど現実に忠告されていた。お前が来る場所はここじゃない、今すぐ立ち去れって。

 

全部予感なんだけれど、予感ってすごくて、当たっても当たらなくても別にすごい。元々ないところに勝手にあることを予想しているだけだから、外れればそうだなで受け入れられるし、当たればすごい!となるところがすごくて、僕は予感なるものや、予兆、予見、予期とも表される、ある種のテレパシーのようなものをどこかから感じ取ることが増えた。増えて、でもそれって僕だけの話しじゃないよなとなぜか思い込んでいた。僕の感覚っていうのは、みんながわかるものなんだってどこかで信じていた。

 

田舎の家で、好きな人も憧れの人も全部インターネットの中にしか居なかった僕は、ずっとその郷愁をなにかにぶつけたがっていた。それは絵であったり、……まあ絵しかなかったんだけれど、あとオセロだ。オセロで弱いコンピュータ相手をぼこぼこにするのもなぜか好きだった。モバゲーの小説サイトは当時めちゃくちゃ流行っていて、僕はそれを読み耽ったし、最後は読むものがなくなって、くだらないコピー&ペーストのネット怪談や都市伝説系の量産記事まで何度も繰り返し読む始末だった。やることもなかったし、やりたいことも、やるべきこともなんにもなかった僕だったけれど、夢だけはあった。夢は、いくつかのこそばゆい情景を僕にもたらしていた。

 

重力ピエロ。伊坂幸太郎のこの小説を僕は読んだことはなかったけれど、例えば深夜アニメ枠のノミタイナでやっているモノノ怪とか、タイトル忘れたけれどあのあたりのハイセンスって形容される独特なアニメの感じが、僕はなんだか自分の居場所みたく思えていた時期もある。さよなら絶望先生のOPにのめり込んだのもその頃で、MADを観たり、ボカロMVの個人制作なのにクオリティが高いやつとか特に好きだったし、ニコニコ動画の『幻想狂気リンク』タグは僕のジュブナイルそのものだったし、最後にハマったのはヒッキーPだったし、そんなわけで、多種多様な文化を摂取しているつもりでも、僕はいつの間にか選別されて、好きなものに偏る凡庸な人の一部になった。尖っている人というのは良く誤解されがちなのだけれど、大勢の人が好むものを好まないというだけで、分母が違うだけで、種類は同じなのだ。特殊性癖とかも、性対象が男か女か無機物か超次元生命体かって、それくらいの違いしかなくて、やってることは同じなのだ。それに区別をつけたいという気持ちはわからないでもないのだけど、それはただのいじめでしょう?と思う。みんな理解できないものをいじめることが楽しくて、現実を支配したがっているのだと、そういう風にも杞憂した。

 

ある時、大学時代のみんなで夢についての映画を観る会を開いた。こういう会って定期的に開催されていて、ある時は『かまいたちの夜に』を一晩でクリアすることをやったし、ある時は『空気人形』をみんなで観てその後味の悪さに疲弊したし、ある時は無難にたこ焼きパーティとか、人生ゲーム会をしようってなったし、またある時は、誰かの誕生日を祝う目的でも集まった。僕は夢の会に誘われて、基本的に誘いを断らなかったので行くことにした。その時の僕らが選んだのは、『インセプション』と『パプリカ』だった。

 

夢の話しってつまらないってよく言われるけれど、それは結局拠り所がないゆえに、眠くなるって言う話だと思うんだけど、その映画はまさに二つとも睡眠導入剤で、『パプリカ』の時は僕以外の全員が寝ていたし、『インセプション』の時は僕が寝ていたから内容は覚えていない。けれど、なんだか美大生って生き物は、そういうものに理解がないといけないみたいな風潮はやっぱりどこかしらかにはあったから、僕はみんな寝ていたけれど、寝ていたなりの談義をした。「導入はよかったよね」「うん、キャラの動きとかよかった」

 

でも夢の話しが本質から限りなく遠くなるのと同じで、なんでもありになっちゃうと、人はなにを取っ掛かりにしていいのかわからず、現に僕もこの話書きづらいって思いながら書いてはいるけれど、でも失敗は失敗だって別に良くて、僕の中からなんらかの手掛かりが残れば、醸せれば、それで別に良くって、こんなのは音のつながりだから、意味で繋がっていない夢と同じで、ある時急にダウンする、分解する、虚構の中に、存在の意識に、拠り所に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

落ちる。浮遊感のある一切の類は僕を至らしめる分裂病に、病は垂れているから味わいだって、別に紐解くまでもなく意味は浮遊する。こだまする、悠然とした広場にピエロが佇む。そのピエロは本来持っているであろう風船をどこかに無くしてきてしまったらしい。両手を硬直させたまま、無機的な表情でじっとこちらを見る。白塗りされた顔と黒く縁どられた目の周りに、白く光る生々しい跡があった。

 

僕か?いや、こそばゆさはどことなくあるけれど、たぶん君なのか?とも言える解釈はすんでのところで切れて、細い紐はたわんで、遺伝子のコードみたいに複雑に絡まっていて、あれは誰なのか。今敏そのものなのか、それとももっと僕の想像の中のはっきりとしない燃える朝日の形容詞がない黄昏の錯乱する逃避行の整列する基盤なのか、僕は確かめたくて、意味もなく公園に足を踏み入れる。この中では僕は自由で、でも全ての自由さが最終的にはカオスにつながるように、僕はなんの心配もいらないはずの僕に、でもそれは心配だよ。必要な心配事と告げる。僕はそうか。と呟き、句読点すらも音に変換されているみたく喋る。《愛だよ、慈しみだよ、普遍だよ、解釈だよ》もれなく僕は音頭を取る。ここが温度でも別にいいくらいのメタフィクション、いったん状況を整理すると、

 

多種多様な人格はそのものを否定する。意味が離れれば音がそれを拾う。価値観は鮮やかさの一種であり、意味は言葉の鉱石の一つで、中に水が入っている。言葉尻だけで連鎖する科学反応、センチメンタルな四畳半、飛来する信号は、狭い僕の部屋で僕だけを連れ去ろうとして、それってなんだかミステリー?失われるのは寸前の自我で、零れるのは明滅する陽の光で、僕は泣けてきてしまう。こんなにも世界がありふれていることが、なんだか素晴らしくて泣けてきてしまうのだ。

 

情緒や、哲学や、思想なんて言葉に身を固めないで。実直で堅実なものの考えを否定して。だけど、僕にはそれを言葉でしか伝えられない。イメージの力を、言葉に変換するしか僕には手立てがなく、勝手に文字を打っている。打っているけれど、急に落下させたくなる。なるけれど、僕にはそれは繋がって見える。みんなが理解できなくても、僕の中で真理は真理なのだ。

 

こんな情けない世界で、いっそ愛だけが燃える燃料であれば、なにも他に要らなかったのに、必要なものはそれだけだったのに。嬉しいも悲しいもない世界で、僕は明日の悲劇だけを呪っていられたし、それはサブカルチャーの寄せ付けない気配の出し方だけが上手くなったインスタグラムのこざかしい若者みたいに熱量を、愛そのものを否定して、そんな世界で自分だけが幸福になろうとかなんて、別に許されるはずもないことで、でもここで、ほんの少しだけ、待ったを掛ける。僕にはそれくらいのことが、別に許されている。

 

どうしても、もうすぐに消えていく自分の気持ちが確かめられないでいる。これが一過性の夢であれば、希望は隣にあっても消えることはなくて、論理と言う名の見えざる手が全てを駆逐した世界の中でも、例えば幾原邦彦の映画はいつだって美しいでしょうに。言葉だから!必要がなくなってもそこにあって、最後に残るのは名前であっても、その墓標はいつまでも言葉の檻の中に建っている。

 

工事現場の音が霞む。悲劇は何度も繰り返して、僕らは公園でそのピエロを見つめ続けた。血だらけの手に、青白く光るものが見えて、こんな安っぽい演出も、いきなり出てくれば結構怖いものだなんて自分を俯瞰して、ぞっとする想像力の広場の中で、行き着く先だけは春を見据えていると、本気でそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕らは映画のエンドロールが終わって、一斉にみんなが起き出した頃に、他愛もない話をした。この前の制作での失敗談や、誰それがまた寄りを戻しただの。こんな風に掛け替えのない青春はいつかの日の元にはっきりと僕らを象徴する憂いになるのかもしれないって、今そう思えても僕には、僕らにはあまりその意味が理解できず、『パプリカ』で脳に侵入していたDCミニは、たぶんだけど意味のことだ。意味そのものが、現実に結晶化したもの。だから夢に意味が侵入すれば、意味で繋がっていない夢の世界に急に意味がもたらされることになりパニックになる。そんなパニック映画だったのだと『パプリカ』を観て思う。

 

これを書いているのは2025年の12月だけれど、今敏の映画『パーフェクトブルー』の劇中歌を歌っているCHAMというアイドルグループが『愛の天使』という曲をリリースされたとしているのが、ちょうど2025年11月19日だったらしい。それにちなんでパーフェクトブルーリバイバル上映されたり、今敏についての話題も再熱している印象がある。

 

彼は例えば宮崎駿のように、万人が面白いと思うものは作れなかった人なのかもしれないけれど、でも彼のように本質を深く狭く追及した結果が、時代を超えて人に届き、亡くなった後も語り継がれているというのは、一過性のミームなんてものではなく、純粋に、伝説とか神話の類に近いものだろう。今敏は神話を作ったのだ、現在のテクノロジーに支配された情緒が失われた現代人の皮肉を込めて。

 

私は今敏監督作品の中で結構記憶に残っているのが、アニメ『妄想代理人』の中の確か10話目?くらいだったかな。ゲイのカップルが出てくる話があるのだ。

 

内容は忘れたけれど、話の最後にその二人が恋人関係だったことがわかるような特殊な演出がなされていて、そのラストに出てきた懐中時計に、ひび割れたガラスの向こうに、闇金ウシジマくんに出てくる肉蝮みたいな怖い顔をした男の人が映っていて、その二人の決して報われない恋心がはらりと表現されていたときに、私は死んでも、死後評価される人にはなりたくないと思った。こんな風に見た景色を誰かに伝えて、感動させて、後悔させるくらいには、伝えて、伝えて、伝えてやろうと決意した。私は今敏のようにはなれないかもしれないけれど、でも自分の中の本質を、鋭く磨かれた刃物が如く、丁寧にさやにしまって今も大事に保管してある。